第一章 扉はひとつ




 ――お前は何故、あそこで死にかけてた?

 予想もしなかった問いに、紅竜は一瞬虚をつかれた。
 ゆっくりと瞬きをひとつして見下ろすと、すぐ傍らで自身の契約者が射抜くような蒼い瞳を向けている。
 長いような短いような血生臭い一日の、終わり頃の事だった。

 陥落した城から逃れてきた連合の残存部隊の、最初の野営地は森の中と決まった。
 疲弊しきっている兵士達は一日に多くを進むことが出来ない。傷兵も数が多い。彼らを敵地となった場所へ置いてはいけないため、勢い連れて行く羽目になる。
 敗走していく行軍の歩みは陰鬱で、遅かった。
 一行の中でもっとも配慮すべき存在は、傷兵よりもまだ足回りに不安の残る『封印の女神』だったが、彼女は契約者の頼みを聞いた紅竜がその背へと乗せて運んだ。
 世界の安寧を担う封印の女神の安全確保は最優先課題であるから、本来、契約相手以外の人間など背に乗せたくない紅竜にも否はない。それに契約してすぐ、その女神が彼の実妹であるということも聞いていた。
 封印の女神の体には失せぬ苦痛が付きまとう。人の身への負荷は尋常なものではなく、人間としての幸せも、女性としての幸せも、なにもかもを捨てなくてはならない。
 憐れむべき存在。悼むべき存在。人柱として、尊ぶべき存在。
 それが封印の女神だ。
 でありながら、愚痴一つ零さず気丈に祈りを捧げ続ける娘の姿に、心を動かされずにいられるほど、紅竜は酷薄ではなかった。
 ただ紅竜が解せぬ思いに眉を顰めたのは、契約者の青年が、女神と共に赤毛の青年を乗せるよう頼んできたことだった。思念であってもすぐと分かる感情を無理に殺した調子で、青年は『頼む』と言った。
 不遜な殺戮者の顔をした青年の、そのどこかきまり悪げな、それでいて必死な感じのする声色に、紅竜は改めて女神の傍らに佇む赤い髪の青年を見やる。
 黒髪の契約者とは、ある意味対照的な青年だった。顔立ちが整っているぶん怜悧さばかりが目立つ契約者に比べ、赤毛の青年の立派な体格には陽気さが、いかつい面立ちの目元口元には子どものような愛嬌があった。腰に大ぶりの剣を下げてはいるが、それよりも背に負ったハープのほうがずっと似つかわしく思える。
『そやつ何者だ?』
『幼馴染みだ、俺の。フリアエの……元許嫁でもある』
 思念による契約者同士の会話は、基本的に互いにしか聞こえない。明後日の方を見たままの黒髪の青年に、竜は微かに溜息をついた。
 元許嫁。その一言で事情の複雑さの半分が伝わった。
 女神は、女神となった時点で処女性を求められる。つまり異性とはどのような形であれ、交わることができなくなる。よって、許嫁という関係も強制的に破棄されてしまうのだ。
 だが、おそらく赤毛の青年は今でも変わらぬ情熱でもって娘を愛しているのだろう。
 それにしても取り敢えず今はおぬしが妹を抱えて我の背に乗れば良いだけのことではないか――という紅竜の言葉は、思念より奥で呟かれただけに留まる。竜の口を噤ませる緊張感が、彼ら三人にはあった。
 面倒なことだと思いながらも、紅竜は翼を下げる。
『好きにせい』
 なんという厄介な相手と契約したのか。
(前途多難だな)
 溜息と共に、竜は三人分の重みをものともせず、空へと舞い上がった。
 彼らの役割は女神の体を労ることだけではない。先行して行軍の道行きの安全を確保する必要性があった。
 一行の目的地はエルフの里だ。
 エルフ族は封印の神殿の門番の責を負っている。
 世界を安定させるための封印は、三つの神殿とひとりの女神の存在からなっており、どれかが欠ければ残された場所への負荷が増大する仕組みになっているため、彼らの土地は基本的に不可侵だった。
 そのエルフの里へ助けを求め、女神だけでも匿って貰おうというのが、この行軍の目的なのだ。
 エルフ族は帝国の急な侵攻によって始まった人間同士の戦争に早々に不介入を宣言、永世中立を謳っており、決して連合の味方ではない。
 だが、帝国があからさまな形で封印に手を出し始めた以上、エルフ族もいずれ中立とばかり言っていられないだろう、というのが赤毛の青年イウヴァルトの論だった。
「きっと、彼らはフリアエの身を案じて迎え入れてくれる」
 彼は腕のなかの娘にそう語りかけていた。
 それは正しかろうな、と背の上の彼の言い様に、紅竜はひっそりと同意する。
(……だが、問題は肝心のエルフ達の地が、真に『安全』と言えるかどうか)
 その憂慮は契約相手の青年に向けたものではない。
 黒髪の契約相手は、何を考えているのか底知れない目で、ただじっと眼下を見詰めていた。

 しばらくは安全だろうと判断した時点で、引き返す。
 黙々と歩む残存部隊の前に紅竜が舞い降りると、兵達が一瞬脅えたように固まった。行軍の足が止まり、伝令が慌ただしく駆けていく様が窺える。
 黒い髪の青年が身軽く地に足をつけると、先頭を護り歩いていた兵達が安堵の表情で寄って来た。
「カイム様……!」
「ご無事で」
「カイム王子、いかがでしたか」
 口々に言い募る兵達に囲まれた契約相手をしみじみと見下ろし、竜は軽い驚きに言葉を失った。
(王子、だと?)
 そういえば、戦の最中にもずっと彼は敬称つきで呼ばれていた。あの戦場でそんなことについて考えられる余裕はなかったのだが――。
(ではこやつ、どこぞの国の世継ぎか)
 すると女神である妹は姫君ということになる。元許嫁の青年は、さしずめ位の高い貴族の息子なのだろう。
(……なるほど)
 道理で、と紅竜は得心した。
 僅かに残った百名ほどの残存部隊を取り纏めたのは、カイムとイウヴァルトだった。
 主だった将軍や部隊長が狙い打ちにあい、倒されてしまった旨が真っ先に黒髪の青年に告げられると、指揮権は当たり前のように青年に預けられ、周囲も彼も特に異議を唱える様子がなかった。
 その時(何故このような若造に頼りに来るのだ。そんなに適役がおらんのか)と首を捻った竜だったが、彼が一国の世継ぎだというなら納得もいく。生き残った人間のなかで、最も身分が高いのがこの二人だったのだろう。
 おそらく、黒髪の青年が竜との契約者になったと知れた折り、複雑な顔をしながらも感嘆の声をあげたのが彼の国の兵、畏怖と若干の不安を滲ませ遠巻きに見ていたのが他国の兵だ。連合軍は、九つかそのくらいの小国の部隊の寄せ集めだと聞いている。その国々の半数は焦土と化し、もはや国の様相を呈してはいない。
 今もまた、カイムの元へ駆け寄ってきたのは青年を敬うようにして見詰めてくる者達ばかりだった。
「この周囲、一両日歩いたほどの距離までは、安全だ」
 カイムの視線を受け、紅竜は口を開く。
 黒髪の青年は舌に契約の印を刻まれ、声を失っている。その声の代わりをしてやろうと言い出したのは竜のほうだった。
 重々しい響きの声がすると、兵達がざわめいた。一生のうちで、竜と会話をする経験を持てる人間が一体どれほどいるだろう。
 では本当に契約を、というひそやかな声があちこちからあがるが、当の黒髪の青年は何も見ていないような蒼い瞳で佇むだけだった。
「今日の野営地はここに定めようとカイムが言っておる。ここから北東に少し行ったとこころに泉があるゆえ、水場はそこに確保するといい。動ける者で天幕と火、水の確保に努めよ、とのことだ」
「怪我人は俺が見よう」
 告げたのはイウヴァルトだった。振り向き、黒髪の契約者に微笑みかける。
「医療兵もほとんどやられてしまっている。俺でも役には立つだろう」
 カイムも、このときばかりは口元に微かな笑みを刻んだ。この幼馴染みは、妹姫が女神となってからというもの、彼女の健康を案じ医学の勉強に勤しんでいたのだと聞いてる。例え傍に居られずともいつかは、と――その心意気は尊い。
  ――殺すしか脳のない俺とは違う。
 その小さな揺らぎのような呟きは紅竜に届き、心のうちに微かな波紋を起こした。
 紅竜は、黒髪の青年の後頭部を見下ろす。
(変わったやつよな)
 おそらく今の『声』が竜に聞こえたとは、青年は思っていないだろう。
 思念での会話はコツが要る。うまく制御しなくては、ただの思考と会話がごちゃごちゃになってしまうのだ。自分の考えていることが相手にすべて漏れてしまう、などということを歓迎する者はいない。
 それでもこの青年はうまく隠しているほうだ。
 契約して直ぐ、へらず口はあって百害などと皮肉った紅竜だったが、どうやらこの青年は元々あまり喋るほうではないらしい。戦闘中に投げかけてくる思念が明瞭かつ苛烈で、口調も荒々しいので常にそうなのかと思っていたが、違うようだった。
 頼む、という風にカイムが頷くのを見届けると、赤毛の青年は兵達に号令をかけ、娘の肩に手を掛けて歩き去った。

 後には、竜と黒髪の青年が残された。
 各々役割を果たそうと兵達が散っていくなかで、老将がひとり、彼らの傍に寄ってくる。
 兜を脱ぎ、厳しく引き締まった面もちを晒す強者は、青年の薄蒼い瞳を捕らえて言った。
「……カイム様。大丈夫ですか」
 覗き込むようにして尋ねる。心から案じている目だった。
 青年は頷き、その老将の肩を軽く労うように叩いた。
「案ずるな、だそうだ」
 竜が代弁する。青年の、戦場で見た暴力的な禍々しさからは想像できないほどの柔らかい仕草に、驚きを禁じ得ない。
 そして、続いて青年から受け取った言葉を声にした。
「ゆっくり休め、とカイムが言っておる。それから」
 一呼吸おいて、竜は思わず青年を見、それから言葉を継いだ。
「……我らは水場の近くで休む。天幕は傷病兵にまわせ。我らが水場を護っているから、万が一、何かあったら水場へ退避しろ、と」
 老将は茫然としたようだった。唇が微かに動く。竜はその動きで、彼が青年を「坊ちゃん」と呼んだことを知った。
 王室の人間の側に在った人物なのだろう。労苦によって刻まれた皺深い頬を引き締め、老将がカイムに頭を下げた。
「心得ました。……お食事は、こちらへいらっしゃるか」
 青年が首を横に振る。老将は胸中を押し殺したような声で「ではあとで届けさせます。……ちゃんと召し上がってください」と告げた。
 黒髪の青年は僅かな間を空けて頷いた。その逡巡に気付かぬ振りで、老将が紅竜を振り仰ぐ。
「あなた様にも、何かお持ちした方が良いか」
 殊更にはっきりした物言いだった。故に、竜には分かってしまう。だから笑った。
「要らぬ。言って置くが、我は人間を喰うような悪食ではない。人が色々であるように、我らドラゴンもまた色々。余計な気を回すな」
 目に見えて老将の緊張が解ける。ふと、紅竜は思った。彼は、竜に襲われた経験があるのではないだろうか。それも、好んで人間をいたぶり時に喰らうことのある――例えば、野蛮で凶暴な黒竜共などに。
 いずれにしても、柳眉を開いた老将は「そうか」と吐息をつくと、紅竜を真っ直ぐに見上げた。
「ではドラゴンよ。くれぐれも、カイム様を頼む」
 真摯な声だった。
 蒼い瞳の青年は、日が陰り始めた森の奥を見詰めたまま彫像のように動かない。聞こえない振りをしているのかもしれなかった。
「……もとより」
 竜は口を開いた。
「契約者と我は一心同体。言われるまでもない」
 幾分素っ気なくその言葉は響いたが、紅竜はこういう人間を蔑もうとは思わない。人間など嫌いであったし、愚劣なだけの仕様もない生き物だと思っているが、直向きに誰かを大切に思う姿は決して醜くないと思う。
 老将は一礼して今度こそ去っていった。
 しばらく沈黙が落ちる。暮刻の風が吹き、幻覚のように凪いだ時間が訪れた。
 少し離れた場所から兵達のざわめきが伝わってくる。その音と風を追うように、黒髪の青年は紅竜の傍らに立ちつくしていた。
 寄る辺ない子どものようにも見え、紅竜は口を開く。
『仲間のところに行かぬのか』
 黒髪の契約者が振り返る。恐ろしくきつい蒼い瞳を向けてくるので、竜は『ほ』と肩を竦めた。なんとまあ気性の荒い生き物だろうか。
 紅竜は動じることもなく身を起こすと、翼と尾で器用にバランスを取りながら水場のほうへと歩いて向かう。
 兵達が天幕を張っている野営地は、万が一の奇襲に備えて木々が密集し入り組んでいるあたりに設営されているため、竜には不向きだ。いざという時に翼を広げて飛び立つことが出来ない。
 紅竜は最初から、開けた場所がある泉の近くで休むつもりで居た。
(だがまさか、こやつも共にこちらへ来るとは思わなんだな)
 カイムという青年の人物像を、今ひとつ掴みにくいと思う竜だった。
 人間に興味はないが、契約者の人となりだけは把握しておく必要がある。契約者が危険に陥れば、自らも無事では済まないからだ。そして多くの場合、危機を招くのは契約者自身の性分である。

 実のところ、契約は解除することも出来る。
 また、相手が死ねば即、契約者も死に至るかと言うと、厳密にそうとばかり言い切れない。
 契約は便宜上『心臓の交換』という形を取るが、実質やり取りされているのはもっと違うものだ。魂や精神、生命の持つ活力、肉体に宿る精気とかいった風なもの。
 それ故、契約による生死の判定は、まず互いの『死』の定義が問われることになる。これがなかなかに難しい。
 肉体が『死』を迎えればすぐに魂が劣化し四散してしまう人間と、もとより肉体など一切持たぬ精神体である精霊などの『死』を同じ様に語るわけにはいかない。竜族のように魂を切り離されて肉体が石となり、眠りについていたとしても『死』と判定されない場合もある。
 一括りにはいかないのだ。
 だが、まさにこのような理由から、契約は神聖視される。
 互いの生と死を結び合うもの、それが契約だ。
 簡単に結ぶようなものではないし、また簡単に解除するようなものでもない。――少なくともヒト以外の者にとっては。
 貪欲で浅薄な人間達は、高い代償にもかかわらず魔と契約を結ぶことをあまり躊躇わないが、ヒト以外のものにとってはもっと意味が重い。
 契約を結んだ魔のものの運命の多くは、儚く終わる。
 本来であれば、契約相手の『死』までの時間は、長い方へと倣う。人間族ならば、ヒトには有り得ぬほどの強靱な肉体となり、その器の老化劣化の速度は格段に緩くなる。
 それなのに、契約者達の多くは互いに示し合わせたかのように寿命よりもずっと速い速度で墜ちていくのだ。契約を解除することもせず。
 魔のものはそのことをよく知っている。それでも、契約を結ぶものが絶えたことはない。
 何故といえば、魔の側の契約の理由が、本能に近い部分に導かれる場合が多いせいだ。例え傍目にどう見えようと、それを否定することは出来ない。利や打算を超え、契約相手の持つ『何か』に抗いがたく魅了され、引きずられてしまう。
 その何かとは、大抵、魔が持たない、人間独特の強い執着や欲や業だ。
 だから魔の側は慎重に契約相手を量ろうとする。でなくては、相手の運命に自分が引きずり込まれてしまう。最も契約の際、その判断力が鈍っていることが殆どなのだが。
(契約とは呪いの一種ではないのか)
 よもや自らがその罠に陥ると思っていなかった紅竜は首を捻った。一万年近く生き、もうそろそろ竜として立派に成熟しようかという段になって、実に厄介なことになったとそう思う。
(あの人間にどうして惹かれたものか)
 理由は自覚している。
 彼の生への苛烈なまでの執着と、火口の溶岩のように滾る憎悪、いっそ鮮やかすぎるほどの憤怒と殺意、そういうものに魅入られたのだ。
 青年は己の血と敵の血にぞっぷりと濡れながら、魔神のごとき強さで周囲の敵を殺し尽くして見せた。まさに、屠るという言葉が相応しかった。
 血と肉の脂にまみれた彼の剣は、もう相手を切り裂けるような状態になく、単に振り回されるだけの鈍器となり果てていた。青年は滴り落ちる血をはじき飛ばしながらそれを振り、相手の体のどこへでも隙あらば叩きつけた。血糊に足がもつれても、青年は執念で体勢を立て直して斬りかかっていく。
 滑稽なほど、無様な闘いだった。
 が、戦のただなかなどそんなものだ。殺戮に本来、美などない。
 だが、紅竜は苦しい息の下からその光景を見ていて、不思議な血の高揚を覚えた。
 憎しみと怒りにかられた死の舞台で足掻こうとする青年を、美しい、とそう思ったのだ。
 だから、すっかり敵兵を殺し尽くしてしまった青年が足を引きずりながら竜に近づき、忙しい息の下から「契約か死か」と声を振り絞った時、竜は「契約しよう」と応えたのだった。
 しかし、理由が分かっているからと言って納得がいくわけでもない。
 大きな体を捻り、紅竜は己の契約者を振り返った。
 青年は敵でも見るような眼差しで紅竜の揺れる尾を見詰めながら、ついてきている。
(やれやれ実にくだらぬ)
 紅竜は溜息をついた。
『憎むなら憎め、と言ったか、おぬし』
 思念で呟く。
『我は憎んでなどおらぬ。憎んでいるのはむしろおぬしであろう』
 言い捨て、振り返らずにそのまま軽く羽ばたくと、一足先に泉の側に向かった。


 水面に頭を沈めて、存分に水を飲む。
 そうしてから、紅竜は身を起こし、ふるりと震わせ、翼を広げて畳み直した。体には矢が掠めた傷がいくつかついていたが、大したことはない。鱗は硬くしっかりしていたし、契約による効果で癒えるのも早かった。
 それでも念のため丁寧に自分の体を検分していると、黒髪の青年が遅れて着いた。特に何を言うでもなく、ちらと紅竜を見やってから、無造作に剣と鞘を繋いでいた革帯を体から解き、草地に落とす。剣と短剣が重い音を立てて鳴った。
 青年は、もう竜など気にもとめぬといった風だった。
 軍靴を脱ぎ、鎧と手甲を外し、上着を脱ぎ捨てる。重たげな音がするのは吸った血が生乾きのせいだろうか。紅竜の嗅覚に、薄れかけていた血臭が届いた。
 編み目の細い鎖鎧を脱ぎ、皮あてのついたズボンも脱いでしまって、薄ものの下衣だけになった青年は、自分の恰好に頓着無く泉の浅瀬に水を蹴立てて進んだ。
 一度、頭までざぶりと潜ってから立ち上がり、青年は幾度も顔を洗う。横顔に濡れた黒髪がかかり、雫を落とした。雫は、溶け出した血に染まり紅い。頭まで返り血を浴びていたのだろう。口の端に落ちてきた雫を舐め取って、青年は幾度か髪を濯いだ。
 それから青年は上半身の薄ものを脱ぎ、自分の怪我の様子を調べ始める。
 肌にこびりついて乾いた血は、容易には落ちない。脱いだ薄ものを絞った布代わりにして擦り、傷の有無を調べていたようだったが、あれだけの数の剣撃を受けながら青年の躰に目立つ傷は殆どなかった。
 紅竜はそんな青年の様子を眺めていたが、こちらを見てきた蒼い瞳に訝しげな色合いがあるのを認めると、どうでもよさげに口を開く。
『それが契約をする、ということだ』
『……』
 青年は自分の左の肩口に視線を落とした。そこに赤く腫れ上がったような傷がある。鎖鎧の繋ぎ目を狙って確かに斬られた覚えのある痕だが、もう肉の芽が盛り上がっており、傷は塞がっていた。
 自分の指で傷痕を辿っていた青年は、何か思い当たったかのように顔をあげた。その蒼い目が瞠られる。
 紅竜の肩口にも同様の痕があることに気付いたようだった。掌でそこを押さえる。
 なるほど、という思念の呟きが届いた。
 それきり、青年は怪我のことなどもうどうでもいい、といった風に乱暴に自分の体の汚れを流すと、上着とズボンを引きずって浅瀬に戻り、面倒そうに足で踏んで血を洗い落とし始めた。

 しばらくの間水音しか聞こえなかった草地に、人の近づく気配がする。
 踞って頭を地に預けていた竜は顔をあげた。くだんの女神と元許嫁である赤毛の青年の気配はしっかり覚えているので、すぐに気付く。
 草を踏み、茂みを掻き分ける音がして近づいてきたのは彼らだった。
「兄さん」
 細い声がする。薄闇に浮かぶ白い服に身を包んだ娘の手には、微かに湯気を立てている椀があった。彼女の後ろには守護精霊のようにイウヴァルトが包みを持って立っている。
 黒髪の青年はそれに気が付くと、蒼い瞳を伏せ何気ない動きで素早く水から上がった。濡れたままの薄ものを急くように羽織り、水で重い上着もズボンもそのままきっちりと身につけてしまう。
 現れた二人組には分からなかったかもしれないが、それまで青年の動きのリズムを追うともなく追っていた竜には、それが恐ろしく慌てた身仕舞いに思えた。
 鬱陶しげな仕草で首を振り濡れた髪を流すと、黒髪の青年は二人を出迎える。フリアエ、と唇が動いた。
「お食事を持ってきました」
 娘の声は細く頼りない。何かを白く美しい肌の下に押し込めたかのような、起伏のない話し方をする姫だった。
 それでも手ずから兄の食事を運んでくるのだから、兄を慕っていることに違いはないのだろう。
 だが紅竜は気付いた。やはり、この兄妹の間には奇妙な緊張感が漂っている。
 いや、兄妹、ではない。一方的に緊張しているのは、どちらかといえば黒髪の青年のほうだ。
 おかしなことだと思う。
 闘っている間はうるさいほど頭のなかで妹の名を繰り返していたのだ。心配し、探し求め、鼓動が不規則になるほど彼女の身を案じては、敵兵への憎悪を募らせていた。
 だというのに、闘いが終わった途端の青年の、この、妹への戸惑いと緊張はなんだろう。
 興味深げに竜は彼らのやりとりを見ていた。
「フリアエがどうしても自分で食事を届けるというのでな。お前、本当にここでいいのか?」
 イウヴァルトの問いに、カイムが頷く。
「そうか。まあ今日は眠るだけだろうが……ほら、毛布と、それから一応、剣の手入れ用の布を持ってきてやった。道具なんか持ち出す余裕はなかったからな。贅沢はいいっこなしだぞ?」
 冗談めかした赤毛の青年の言い種に、カイムが微かに笑む。そして妹の手から椀を受け取ると、『ありがとう』と唇を動かした。
「ああ」
「それじゃ、おやすみなさい兄さん」
 挨拶を交わし、連れだって二人が去っていく。遠くからイウヴァルトの「風邪を引くなよ」という声が届いた。
 夜の木立の向こうに二人の姿が消えると、目に見えて青年は肩から力を抜いた。そうして、立ったまま椀の中身を気怠げに啜る。本当に王族かと思うような行儀の悪い振る舞いだ。
(……まあ、それだけ流浪の生活が長かったということか)
 どんな事情か知る由もないが、安穏と城の中で王族の暮らしをしていたわけではないのだろう。
 紅竜はこの日、幾度めになるのかわからない溜息をついた。
 こちらに無防備な背を晒し、立ったまま椀に盛られた薄いスープを啜っている青年の髪からは未だに雫が落ちている。落ちない血の染みがついた上着もズボンも、水を吸って重く見るからに冷たそうだった。
(なんという馬鹿者か)
 舌打ちをし、仕方がない、とばかりに紅竜は息を吸い込んだ。
 体内で熱量を加減して、後ろから青年を吹く。炎など出さないが、吹き付ける息吹はそれなりに熱い。
 ぎょっとしたように振り返った契約者の表情が実に良い気味で、紅竜は胸がすくような気分になる。
 青年は酷く驚いたのか、抵抗もせず竜の一息が終わるまで立ちつくしていた。
 吹き終わると、両者の間には沈黙が落ちる。
『……なんぞ不服か?』
 青年の服と髪はほとんど乾いていた。紅竜の言葉に、蒼い瞳で睨むようにして見詰め上げていた青年が視線を逸らせる。
『別におぬしのためではない。ずぶ濡れの契約者に病にでもかかられては、我がかなわんのではな。いいから座って食事をすませてはどうだ』
 黒髪の青年は僅かな間の後、紅竜のすぐ傍らにどかりと腰を下ろすと、黙々と残りの食事を片づけにかかった。まるでやけくそのように中身を最後まで呷ってしまうと、指についた汁を舐め取る。赤い舌に刻まれた契約の印が背徳的だった。
 どこか獣じみた仕草も、この青年が行うと妙に様になる。確かにこれは綺麗な人間の男の部類だな、と竜は感心した。
(これでいて、中身は魔物も遁走するような殺戮者とはな)
 無論それだけというわけでもない。
 紅竜はそろそろ理解し始めていた。
 黒い髪の青年はひどくアンバランスに出来ている。闘いの最中、愉悦に酔い高揚し、笑みさえ浮かべて必要以上の血を流す青年も、こうして疲れたように物憂げに口を閉ざしている青年も、自分の手の中の者を労り気遣う青年も、みな同じ『彼』だ。
(人間は単純ではない)
 もしかしたら、魔たるものがヒトに魅入られる理由は、こうした複雑さにあるのかもしれない。人間を蒙昧愚劣と蔑んでいるのは、何も竜族ばかりではない。妖精族も精霊も似たようなものだ。それでも彼らが契約相手に選ぶのは、愚劣と蔑んでいる人間族が圧倒的に多い。
(……やはり契約など呪いにすぎぬ)
 紅竜は思う。
 当の契約相手は空の椀を投げ出してしまうと、毛布を体に巻き付け、剣と手入れ用の布を引き寄せていた。布で磨く程度では剣の血糊も脂も綺麗に落ちないだろうが、そうかといって何もしないでいては、あっという間に刃がなまくらになってしまう。
 黙々と剣の手入れを始めた青年の背を見ながら、竜は再び頭を地へと預けた。
 やっと周囲に落ち着いた静けさが戻る。虫の声も、水面で魚が跳ねる音も、緩やかに夜を刻んだ。
 泉の周囲は開けた草地になっており、半月の上った空がよく見えるため、焚き火をしなくても明るい。
 月夜を飛翔するのは、紅竜のお気に入りだった。白銀に輝く月を背に浴びた時など、翼の隅々まで精気が満ちるような気持ちがする。夜気を切って滑空するときの爽快感を思い浮かべて物思いに耽っていると、

 ――お前は何故、あそこで死にかけてた?

 まったく出し抜けに、頭のなかに思念の問いかけが響いた。
 紅竜はまさしく不意をつかれた。目を開け、頭を起こして思念の主を見下ろす。
 背を向けて座っていた青年はいつのまにか横顔を晒すように座り直しており、竜に向かって蒼い瞳を向けていた。
 紅竜は二、三度瞬きをする。死にかける、と言うと、おそらくはあの城の中庭での邂逅のことを指しているのだろう。
 紅竜は身動ぎをし、『……我が言うことを聞かなかなんだのでな』と応える。人間如きに教えてやる義理などないと突っぱねてやろうかと思ったが、気が変わった。
 黒髪の青年は、続きを待つ表情で竜を見ている。
 竜は続けた。
『帝国の人間どもめが、卑劣な罠をかけて我を捕らえたのだ。まあ騙し討ちにでもしなくては、紅い翼を持つ竜を捕らえることなど出来なかっただろうがな。きゃつらめ、よってたかって我を呪で縛り、暗示をかけて、あの城を襲えと我に命じた。だが』
 竜は胸を張る。
『紅き竜に暗示など効かぬ。人間などに頭は垂れぬ。例え幾百の魔術を用いても、我の理性と心を奪うことは敵わぬ。我はそう言った。我の魂を汚そうというのであれば、殺すが良いと。例え死しても、この魂はくれてやらぬ。ぬしらに出来るのは、精々我の翼を折り、体に刃を突き立てて、うぬらが下劣で卑小な品性を晒すことのみ。我の誇りを汚すことなど出来はしない、と』
『……まさか、本当にそう言ったのか』
 青年の声には若干の呆れが潜んでいる。
『言うた』
『それで、あそこにああやって呪と鎖で繋がれ、翼を折られ、山のように刃を突き刺されて死にかけていたって?』
『そういうことだな』
『……』
 ――なるほど、へらず口はあって百害だな。
『……おぬし、今、無礼なことを思うたな!』
『おい! 会話にしようとしてないことまで聞き取るのは反則だろう!』
『黙れ馬鹿者。おぬしが早く思念での会話のやりようを飲み込めばいいのだ!』
『やったこともないものがそう簡単に出来るか!』
 真っ向から視線が合う。
 一瞬の緊張の後、ふいに空気が溶けた。青年の心のどこか奥のほうが柔らかく緩んだのを、紅竜は感じ取る。
 青年のその緩みに、竜は初めて動揺した。
 動揺した自分に、何故か狼狽する。
(……今)
 己の魂の何かに、狂いが生じた気がした。自分は、どこか取り返しのつかないほうへ向かって羽ばたこうとしている。その予感に紅竜はうっすらと身を震わせた。
 目の前の黒髪の契約者は、緩んだものをそのままに紅竜の傍らで息を付く。
 手には剣。蒼い瞳に映っているのは、袖口から落とすことの出来ない血の染みだ。
『人も色々、ドラゴンも色々か。……なるほどな』
 ぽつりとした青年の思念の呟きだけが、いつまでも紅竜の頭に木霊していた。





(10.6.17~19)


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