エクスデス(世界樹)@5(09.10.8)








世界樹





ああまた来たのか、と『彼』は思った。

『それ』は不定期に『彼』のもとを訪れる小さな生き物なのだ。
小さい、と言っても、『彼』の頭上に羽を休める鳥達よりは遙かに大きい。そう、『彼』の実りの恩恵を求めて宿りにくる四つ足の獣たちと同じくらいだろうか。
『彼』は『それ』をおかしな生き物だと思っている。他のどんな生き物よりも興味深い。賑やかで、熱い生き物だ。
その生き物はヒトのような形をしているが、どうにも少しばかりヒトとは違っているように思える。ヒトの言語を解し、喋り、そのように振る舞っているが、『彼』の『目』には、その生き物の中に多くの風が在るように映った。

「お前は何だ」

 問う。
 するとその生き物は笑うのだ。さも可笑しそうに、「人間だよ」と応えるから、『彼』はゆっくりと首を傾げる。

「どうだろうな」

 言えば、その生き物はまた笑う。

「あんたさ、俺が来ると必ずそう聞くよな」

 その声の調子が大変に楽しそうなので、『彼』は少しく愉快になる。初夏の陽光のようだ。
 その生き物はバッツと名乗った。バッツはつねにボコという名の黄色い大きな鳥を連れている。
 バッツという名の生き物は、訪れると必ず『彼』の足下に座って過ごした。
 空を見上げ、緑の葉陰から降る陽光に目を細め、時折横たわって眠りをとったりする。
 そして他愛のない旅の話をよく喋った。

 ああ風に良く似ているのだと『彼』はそう思った。
 バッツの中に風があると思っていたが、何のことはないバッツは風そのものだ。

「なあ、あんたさ」

 バッツがひょいと『彼』を振り仰いだ。

「まだ人間は嫌いか?」

 『彼』は首を傾げる。
 まだ、とはどういう意味だろう。『彼』の記憶では、人間を嫌ったことなどはないように思える。
 だが、そう――。

「我は一度、世界に倦んだ。命にも、ヒトにも」

 ヒトは度し難い。
 命の理を平然と違え、裏切り、侵し、冒涜する。
 世の根幹のクリスタルを汚し――そうして失望と絶望に打ち震えた『彼』は、身を取り巻く凝った黒い瘴気に抵抗することを止めた。
 我が身など無くなれば良いと思ったのだ。
 『彼』の髪で遊ぶ涼やかな風は失われた。体内を巡る水は澱んだ汚水になり、大地は毒に侵されて脚は醜く歪んでいく。星の熱は冷え、『彼』は孤独に凍えた。
 羽を散らして息絶えていく無力な生き物たちの亡骸が『彼』の足下を埋め尽くした時、『彼』は嘆きという衝動を知った。
 『彼』には、そこから次に目覚めるまでの記憶がない。
 気付けば『彼』の周りは光で満たされ、大地が再生の詩を謳っていた。
 失われた筈のクリスタルは新しく生まれ変わったようだった。ごく小さな煌めきだったが、確かに世界にその息吹が感じられる。
 生き物たちは再び、浄化された『彼』のもとを訪れ恵みを口にするようになった。
 何が起こったのか分からぬまま、『彼』はやがてバッツという名の生き物の来訪を受けた。

「嫌ったことはない」

 『彼』は重々しく口にした。好悪の感情で命を量ることなど出来ようか。

「そか」

 バッツが笑う。
 『彼』はその笑顔を見て、ほんの僅か口元を緩める。何かを思い出しそうになるのはこんな時だ。
 そういえば途切れた記憶のなかに、この生き物の哀しむ表情があったようにも思う。
 『彼』の手が差しのべられ、バッツの頬に指が触れた。
 バッツはそのまま『彼』を見上げ、砂の色合いの瞳で真っ直ぐに見詰めてくる。

「もう無になりたいとか、思わないか?」

 『彼』はその問いを音楽のように聞いた。
 バッツは羽毛を持たない生き物なので、己の枝が皮膚を切り裂いたりしないよう、『彼』は細心の注意を払う。
 指先を伝って、地熱に似た温度が『彼』を温めた。

「奇態なことを。無も有も、望むようなものではない。それは循環と存在の一部である」
「そうだな」
「いずれかに固執し囚われれば、魂も滅びよう」
「うん、そうだな」
「……だが」

 『彼』はふと首を傾げた。何かが記憶に触れた気がした。

「そう、我は一度囚われたのだ」
「今、囚われてるんでなかったらいいさ。安心した」

 年輪の淵に立って沈みそうになった『彼』を、あっさりとバッツが引き戻す。

「お前は、変わっている」
「そうかあ?」

 『彼』の声に、飄々とバッツは笑った。
 その頬に触れたまま、『彼』は思う。この身の内の水脈が沸き立つような感覚を、慈しむ、と呼ぶのだと知っている。
 『彼』の頭上で肩口で囀る命や、足下で『彼』同様に大地から熱を受け取り咲く花々、寄る辺を求めてやってくる獣たち、そうしたものに抱くのと同じ情動なのだ。
 ああ、と『彼』は吐息をついた。

「お前のなかにクリスタルが在るのだ、風のバッツ」

 『彼』は今度こそはっきりと微笑んだ。

「お前はそうして世界を渡り、お前と共に良き命の報せが世界を巡る」

 風よ、と、古き霊力を宿した神の大樹の精は僅かに身を屈め、青年の額に祝福を与えた。

「憂い無く行け」

 ありがとな、とバッツが晴れやかに笑む。

 青年はまた旅を巡り、そして帰る。故郷に、親しい人の居る街に――。
 そして、世界を嘆いた神の大樹の元に。




end.