オアシス(セシル+リディア)@4(09.9.8)




 殺してやりたい、と少女は口の中で言葉にしてみた。
 その言葉に違和感や拒絶感はなかったが、そのかわりどんな熱も衝動もない。無味乾燥な、意味を持たない言語の連なり。
(ころしてやりたい)
 もういちど呟いて、それからそうっと首を傾げる。
 おかしなことだ。大好きな母を殺され、家を村を焼かれ、炎熱に喘ぎながら一度はそう呪詛を口にしたはずであるのに、あの時の苦痛と怒りは一体どこへ消えてしまったというのだろう。少女のなかに今在るのは、深い哀しみと寂しさだけだ。
 目の前には暗黒色の不吉な鎧に包まれた背中がある。少女は睨んでみようと眉間に力を入れてみたが、疲れるばかりでどんな感慨も浮かんできたりはしなかった。
 ――どうしてこの厄災の男を憎むことが出来ないのだろう。
 ひといきに歳を取った気分で、少女は眉間から力を抜き、密やかに溜息を付いた。
 母を殺したのは彼だ。
 村を守護するドラゴンを斬り捨てたのは彼であり、その為に召喚主である母は息絶えたのだから、同じ事だった。
 村を焼いたのも、少女を傷つけたのも彼だ。
 彼は災いを呼び込み、魔物の炎を村に放った。どんな水でも消すことの叶わない、深く暗い闇の炎。彼自身がそう言って認めたではないか。
 少女には彼を憎む充分な理由があり、殺してやりたいと心底思ったとしても許される筈だった。
 なのに、少女のなかは振れば音がするほど空虚だ。
 ひどく疲れていて、正直、何も考えたくない。小さな体にとって、答えのでないことを考え続けるのは負担だった。

 男を――セシルと名乗った不吉な姿の黒い戦士を、少女は許したわけではない。
(だけど)
 そう、けれど。と、少女は思う。
(このひとはとてもふかいかなしみのそこにある)
 村を焼く炎のなか、呼吸さえ燃えるような地獄のなかで、彼は少女を連れ出そうと必死で手を伸ばしてきた。狂乱のなかにあった少女だが、そのことだけは覚えている。
 紅蓮の炎のなかで、男の藍の瞳がそこだけ湖のようで、まるで母の喚ぶドラゴンの色だと少女は思ったのだ。
 砂漠を行く男の背に揺られながら少女は幾度か目を覚まし、その度に彼の哀しい溜息を数えた。宿ではっきりと意識を取り戻した時初めて男の声をきちんと聞いたが、彼は一度も赦しを請うことをしなかった。
 踏み込んできた追っ手から自分を庇い、斬りむすぶ男の背を眺め、少女は淡々と思った。
 ああこのひとは泣いている、と。 
 魔神のように強い戦士が、鎧に顔を隠して涙もでないような慟哭の淵にいる。嘆き、怒り、心から血を流している。
 召喚士である少女には、そうした彼の心情が怖いほどはっきりと流れ込んできていた。
(なにをそう泣くの。泣きたいのはわたしのほうなのに)
 現実として少女はひとかけらの涙も流せなかったが、理不尽な気分で唇を噛む。
 むろん、男だって本当に泣いているわけではない。
 だからこそ、分かってしまうのだ、泣けない辛さが。胸を潰すような重い哀しみが。
 全ての責を負おうと立ち、許されようともしない潔い戦士の背に、もういい、と、少女は些か投げやりな気分で思った。
 何かを憎み続けることは疲れる。息を引き取る間際、母もそう言わなかったか。
「憎まないで、リディア」と――そう、生気のない顔で微笑まれたときにはまだ、母が何を言っているのか分からなかった。きっと、このことだったのだろう。

 少女は、男に自分の名を告げた。
 この哀しい人の背についていこうとそう決めた。村へは帰れない。母ももういない。

「ねえ」

 今、彼はじっと耐えていた。更なる哀しみに。深い痛みに。
 少女リディアは、男の背に小さく声を掛ける。
 彼は振り返らない。リディアの声に微かに反応して、何事か柔らかい声で呟いた。大丈夫だよ、とかなんとかそう言ったに違いない。
 大丈夫でもなんでもないくせに、と少女は思う。
 男が見詰める先には親切な村人が貸してくれた寝台があり、そこには金の髪の美しい女性が横たわっている。熱病に蝕まれてやつれていても、頬の線には気品があった。
(おひめさまね)
 リディアは呟く。
 女性の呼吸は浅く速く、召喚士の力など無くても彼女が死にかけていることが分かる。熱にひび割れてなお病的に美しい唇からは、村を焼いた炎熱のような死の吐息が紡がれていた。
 さらさら、と、砂漠の砂のように命が零れて落ちていく。
 その音を、リディアは静かに聞いていた。

 ――『彼』はじっと拳を握り、歯を食いしばって哀しみを堪えている。

 ころしてやりたい、という言葉が自分にとってもう何の意味も持たないことを、少女は物寂しい気分で喜んだ。
(たぶん、わたしはいつか彼をゆるすことができる)

「そのひと、たいせつなひとなんだね」

 言って、男の背に近づくと、少女は後ろから黒い篭手に包まれた手に触れた。
 普通の人間ならば鎧で体温など分かるまい。だがリディアにはその指が氷のように冷えていることがわかる。
 少女に手を取られ、男がひどく驚いた様子で振り返った。

「助けてあげなくちゃ。お薬を、なんとかしよう」

 まだ微笑みかけることはできない。けれど精一杯の思いで少女は男の指をひいた。たすけなくちゃ、ともう一度言う。

 男は胸が詰まるような声で、ありがとう、と少女の手を握った。



end.