真夜中の電話の主は、遠い場所にいる金の髪の子どもだった。



||| 菩提樹 |||




 もう少しだけ片づけたら仮眠を取ろうと、こめかみに指を当てた時に、その電話は鳴ったのだ。
 夜中の電話は軍部にいても気持ちの良い物ではない。脅えは生まないが、どんな非常事態かとげんなりする。
 このところの激務で家に帰る暇もない。本気で息抜きが出来ていた頃が懐かしかった。
 今では「そうと見せかける」だけの息抜きの時間しか取れず、それでは余計に気を回すことになって疲れる一方だ。
 締まらない蛇口から水滴が落ちるように、自分の中に虚ろな音を響かせて疲労が澱のように溜まってゆく。
 けれど、まあそれは構わない。疲労が溜まれば仮眠室での眠りがそれだけ深くなる。夢も見ない死んだような眠りを望む自分がいた。
 気鬱、というわけではない、と思う。こんな事で疲れている暇はないのだから。約束を、野望を、それらを叶えるのに立ち止まってはいられない。
 ただ、時折忍び込んでくる、この熱泥のような衝動はなんなのか――。
 「マスタングだ」
 電話機のランプが、外部からの直通であることを告げているのを確認してから取る。少しばかり不審に思いながら名乗った。
 この机の直通番号を知っている人間は限られている。しかし直属の部下の殆どは今日は施設内に居るはずだ。
 電話の相手は無言だったが、咄嗟に脳裏に閃く姿があった。
 「……鋼の、か?」
 微かに身動ぐ気配だけが伝わってくる。零れた息は、よく知る少年のものだった。
 何かあったのだろうか、と思う前に自分の緊張が解れていくのを感じて、ぎしりと背もたれに身を沈めた。
 電話の向こうの少年はどうしてか躊躇いがちだったが、電話を切る気配はなく何かを言い淀んでいる風でもある。
 「元気かね?」
 いつもの通りにからかってやろうかとも思うが、こんな真夜中の電話を彼がかけてくることは珍しい。最後に顔を見たのはいつだっただろう。
 その最後に見た彼の顔――叩きつけるように睨んで来た顔を思いだして、ずきりと目の裏が痛んだ。
 ああ――そうか。あの時だったか。
 『どういうことか説明しろ!』と、小柄な体から振り絞るように叫ばれた、悲鳴のような叫び。
 掴みかかられて、思わず殴った。上官に向かって手をあげるか、と突き放すと、弟に羽交い締めにされながら、金の瞳を怒りに燃やしてこちらを糾弾してきた。
 『こいつ、ロス少尉を……ッ!』
 引き絞られるような声。
 ――忘れていた筈の拳が痛んだ。知らずに眉を顰める。こめかみも拳も、目の裏も痛い。
 偽装工作の最中にあの子どもが現れたことは計算外だった。
 説明などしてやれる暇はなかった。そのまま続行するしかない。そもそもが綱渡りのような作戦だったのだ。手順が狂うことは許されない。路地に転がる焼死体が偽物だと漏れれば、こちらの身もあの兄弟の身辺も危うくなろう。
 判ってはいたが、殴った拳は痛かった。手をあげてしまった、とも思う。
 殴った理由が、苛立ちのせいもあったのかもしれない。いきなり知ったヒューズの死で混乱しているだろう彼に糾弾されることは、どこか胸を突き刺されるようでやり切れなかった。
 イシュヴァール戦線以来久しく嗅いでいなかった、自分の錬成する焔での肉の焦げる匂いも神経に障っていた。たとえ合成された蛋白質が焦げているのだとしても、嗅ぎたい匂いではない。
 閉め忘れた蛇口から、冷たい水滴が胸に落ちる。その音がする。
 やまない音にうんざりしながら、椅子に深く身を沈めて目を瞑った。
 網膜に彼の金色の瞳が翻る。


 「……大佐」
 黙ったままの電話の相手に焦れたのか、やっと少年の声がした。
 その声だけで判った。
 ああ彼女に無事に会えたのか、と口元が綻んだ。
 それでは彼女――マリア・ロス少尉は上手く逃げおおせたのだ。部下は見事にやってのけてくれたらしい。そしてこの子がこんな風に電話をかけてくると言うことは、彼女はやはりヒューズを殺害した犯人などではなかったのだな。
 ならば今頃、巻き添えを食っただけのあの少尉は軍の手を逃れ東の国へ旅立った頃だろう。首尾良くエドワードは彼女を見送ったのだろうか。
 これでひとつ肩の荷が下りた。
 無論、何もきちんと解決したわけではない。ヒューズの死に隠された謎は益々混迷を深めていく一方だ。ロス少尉が無実となれば、当然あの急な逮捕劇やら、不自然な嫌疑のかかりかたやらが一層怪しく、その裏の軍上層部の黒い疑惑が浮き彫りになるばかりだ。
 それでも、ひとつでも多く自分が間違えずに対応出来たことに純粋に安堵する。
 (そうだ)
 はっとして身を起こした。
 「鋼の」
 この電話は盗聴されている。
 「知ってる」
 返答は素早かった。ああ、同行した少佐かブレダあたりから聞いたのか。何も言わなくても察知して答えてくるところが、流石に回転の速いあの少年らしい。
 自分の口元が笑みを形作る。
 「それは残念だ。折角知らないだろうから伝えてやろうと思ったが無駄だったか」
 「……アンタ情報遅いんだよ。年で鈍ってんじゃねーの」
 交わした会話のフォローをしておこうと口を開けば、即座に調子を合わせてきた。こういう気転もきく。
 だがいつもの覇気はなかった。萎れた様子で電話の向こうに立っている少年の姿を思い浮かべて、胸が痛み始める。
 エドワードは本質的に純粋で優しい。強く、誇り高く、少年らしい真っ直ぐな魂を持っている。
 この電話はおそらくは――。

 長く、長く沈黙が続いた。
 静寂が肌に染みるほどだったが、薄曇りの夜空から降ってくるぼんやりとした月光が非現実的で柔らかく、不思議と心地よかった。

 「……ごめん」
 回線を通して、それは直接耳に響いた。掠れた呟くような声だった。
 今、電話の向こうに立っているのは国家錬金術師の天才少年ではない。
 ただの子どもだ。エドワード・エルリックという名前の、まもなくやっと十六歳になろうかという少年なのだ。
 「年寄り扱いの謝罪なら、戻って来てから私の顔を見てしたまえ」
 淡々と告げてやる。
 けれど皮肉な笑いを滲ませたそれが、苦笑いにすり替わっている自覚があった。ああ、やはり私に謝ろうとしていたのか。
 受話器を通して、子どものようなエドワードの声がただ響く。
 「ごめん。大佐。……ごめん」
 「……ッ」
 やめたまえ、と言いかけて言葉が出ない。
 机の片隅に立てかけてある、ヒューズと撮った昔日の写真が目の端に映る。


 ――目が眩んだ。


 「やめなさい、鋼の」
 殊更に銘を呼べば、案の定少年は黙る。金の瞳が曇っていく様子を、奇妙にリアルに想像できて自己嫌悪になった。
 『君のせいではない』と、言ってやりたかった。
 エドワードはおそらく自分を責めているのだろう。賢者の石と第五研究所の件に、ヒューズを巻き込んだと思っている。おそらく自分たち兄弟にさえ関わらなかったら、ヒューズが死ぬことはなかった、と思っているのだ。
 それは一部、事実だ。
 だが真実ではない。
 あの兄弟に関わって命を落としたからといって、ヒューズが彼らを恨んだり後悔したりすることはない。私が親友の死の責任を、彼らに負わせることなど有り得ない。
 だから謝って欲しくなどないのだ。
 しかし盗聴されている電話でそんなことが話題に出来るはずもない。
 もどかしくて苛々する。
 大体、どうしたわけで電話なんぞで謝ってくるのか。これでは慰めてやることも発破をかけてやることも出来ないではないか。
 そもそも慰めてやりたいなどと思う私もどうかしていると思うが、普段生意気なばかりの相手が素直に「ごめん」などと泣きそうな声を出すから絆される。
 (……そうか)
 電話だから、か。
 唐突に理解して、ひそりと溜息をついた。
 電話だから、素直に言えると決心したのだろう。日頃の彼と私の会話を鑑みれば、会って直接、などという真似が彼に出来るはずがない。私とて、会えばきっと素直に受け取ることをせず、からかって怒らせて終わりになってしまうだろう。
 してみると、電話は顔を見せない不誠実さではなく、素直に心情を吐露するための彼なりの一生懸命さの現れなのだ。
 「……エドワード」
 ひと呼吸置いて、今度は名前を呼んだ。
 電話を切らず息を潜めている少年が普段の彼らしくなく、そのことに柔らかい情感を覚える。
 「エドワード?」
 「……何だよ」
 日頃、私からはあまり呼ばれたことがない自分の名前に面食らったように、少年が小さく返事をした。
 「歌ってくれないか」
 たっぷり十数秒の間があった。


 「……はあ?」
 思わず、というようないつもの声が可笑しくて低く笑う。
 「いやなに、そろそろ仮眠の時間だったのでね。ちょうどいい。何か歌ってくれ」
 「……頭湧いてんのか?」
 唸るような不機嫌な声だったが、いつもならこんな事を言えば、ぎゃあぎゃあと罵声の嵐の挙げ句に勢いよく電話が切れるところだから、これは相当大人しい。
 「湧いてるんだ」
 軽く答えて喉を仰げ、深呼吸をする。目の上を掌で覆った。
 「大佐……疲れてんの?」
 おや。深呼吸が溜息に聞こえたか。それとも、吐く息が震えた事に気づかれたか。
 「ああ、まったくな。益体もない仕事ばかりでサボる暇さえない。もっと給料が良くてもいいと思わないかね?」
 ははは、と笑うと、電話の向こうでエドワードが黙る。冗談だよ、と苦笑いした。
 「……俺、歌そんな上手くないぜ?」
 「……」
 不覚にも手が止まる。
 歌ってくれと言うのも冗談だ。何、君にそんなことを頼んだらあとでどんな嫌がらせをされるか判らない。ああこの場合は聞かされる私がそれだけで嫌がらせをうけていることになるのかな。
 ――と、頭の中で次に言おうと思っていた言葉が片端から滑り落っこちていく。
 まさか、歌ってくれようっていうのか、君が。
 「……鋼の」
 驚きからなんとか身を起こした私を、受話器から聞こえてくる歌声が再び驚きに突き落とした。

     泉に沿うて 緑の菩提樹
     共に歩みし 夢をみつつ
     幹に刻むは いにしえの誓い


 「……」
 体が椅子に沈み込んだ。
 変声期直前の、不安定で揺れる声。だがその声は綺麗で、響きが良かった。上手くないと彼は言うが、そんなことはない。
 優しい、声だった。

     喜びも哀しみも 訪なう影よ
     今日も去りゆく 夜のただなか
     常闇に立ちて  瞳閉じれば
     枝葉鳴る    語るごとくに

 古い古い歌。
 よくまあこんな歌を知っているとも思ったが、彼は優秀な錬金術師だ。文献を漁るのはお手のものだし、それぞれの錬金術師達が残す文献は暗号化されることが多く、古い詩歌を利用して綴られるものもあるから、知っていてもおかしくはない、と思い直した。
 ただ歌えるとは思っていなかった。がさつで暴れん坊な少年の繊細な部分を、こんな形でも見せられて新鮮だった。
 歌詞と旋律が、疲労した頭を解していくのが判る。手足が温まっていくのを感じて初めて、それまで指先が凍えるように冷たかったことに気づいた。

     「おいで愛しいひと ここが幸せ」

 蛇口から水が落ちる。その水が溢れそうなことに、今気づいた。
 目を閉じる。その上から手で覆う。
 瞼の裏が熱かった。

      頬を掠める 風は冷たく
      纏うものも 捨ててなお急ぐ

 優しい歌。
 優しい声。
 優しい子ども。
 ――なあ、鋼の。
 死ぬのなら私が先だと、ずっと心の何処かで思っていたんだ。
 あれが先にいくことなんて考えても見なかった。
 いつだって私の後ろにいた。支えてやると、後ろは預かってやると、そう言っていたんだ。
 それなのに。
 「………」
 鋼の。
 私は立ち止まるつもりはないんだ。
 ヒューズの死さえ乗り越えて、果たしたい野望がある。約束がある。
 ――ただ。

      遙か隔たりて 佇めば
      いまなお聞こゆ 「ここが幸せ」と

 エリシアの泣き声、が。

 『どうして、ぱぱをうめちゃうの』
 『うめないで、いやだよ……ぱぱぁ!』

 ぱた、と水滴が胸元に落ちた。
 水音がそのまま現実になったのかと驚き、それが涙で自分が泣いていたのだと気づく。
 ああ、私は泣きたかったのかとぼんやりと思った。泣けた筈だったのに、まだ泣き足りなかったのだろうか。

      いまなお聞こゆ 「ここが幸せ」と

 涙が止まらない。掌で顔を覆っても、溢れて熱い雫が落ちていく。
 けれど口元が緩み、私は笑いたくて仕方がないような心持ちだ。
 ああ鋼の。君には泣かされたり驚かされたり笑わせられたり怒らされたり、本当に忙しい。



 歌声が途切れ、歌い終わったのだと気づいても私はそのまま動けなかった。
 「……大佐?」
 ひっそりとエドワードの声が受話器から届く。
 ありがとう。優しい夜は思いがけない贈り物だったかもしれない。こんなに暖かい慰めを、あんな風な君から貰えるとは思いもしなかった。
 例えこの行為が君の罪悪感から来ていたとしても、今の私には願ってもない幸せだった。
 ありがとう、と呟くと、電話の向こうの子どもが、うん、とか、ああ、とか返事をする。そうして少しだけ口ごもると、彼は一息に、早口に言った。
 「特別だ。もういっぺん歌ってやるから、アンタそこでそのままちょっと寝ろ!」
 「……エドワード?」
 「うっさい黙れ。恥ずかしいことなんべんも言わすな馬鹿。それからそんな声で名前呼ぶな無能!」
 「はがね……」
 「さっさと受話器を机の上に置いて突っ伏して目え閉じやがれ!」
 大人しく子どもの言うとおりにしてやりながら、笑いを堪える。
 鋼の。
 今、きっと君ものすごく照れているだろう?
 乱暴な言葉の向こうで、耳まで染めてぐしゃぐしゃと綺麗な金髪を掻き回す仕草まで目に浮かぶようだ。次に来たらぜひともからかってやりたい所だが、この非現実的な夜に免じてやめておいてやろうと思う。

 冷たい机に額を乗せる。
 受話器から歌が流れ出す。
 器用なようで居て、不器用な君。
 (面白い子どもだね、君は)
 自分が久しぶりに微笑を浮かべていることに、どこかで安堵して目を閉じる。
 可笑しい子ども。おかしな夜。


 ――ああ、可笑しくて笑いたくて、涙が出る。




end.


05.5.18~19