絆という名の |
「よろしかったのですか」 空を見上げて立っていた私の背中は、そんなにぼんやりとしていただろうか。いつのまにかすぐ後ろにホークアイ副官が、立っていた。 いや元副官というべきだろう。この騒ぎで暫定的に作戦指揮官へと復帰しているが、私は未だに伍長のままなのだから。 「何がだね」 彼女を振り返って笑う。 久しぶりにしみじみ眺めた彼女は、やはり凛々しく背筋が伸びて美人だった。美人なのに甘い雰囲気がないのも以前のままだ。戦闘の最中に再会した時には気づかなかったが、少しだけやつれたようにも思える。その鳶色の瞳が、私を追い越して空に向いた。 「彼らを、行かせてしまって」 そこには何もない。破壊された街から立ち上る狼煙のような黒煙がたなびく、薄青い色の空が在るきりだ。 彼らは行ってしまった。『扉』の向こうへ。 金の髪の少年達。宿命の子どもたち。けれど兄のほうは、もう『子ども』とは呼べないような背格好に成長していた。 禁忌の扉を開いて業を背負った彼らは、再び別の扉を開いて見知らぬ世界へと行ってしまった。 帰ってこれるのかどうかも判らない、遠い遠い世界。 「本当によろしかったのですか」 無言で空を見詰めていた私に、彼女は重ねるように呟くように言った。 あの時、引き留めようと抱えた私の腕の中で、哀しいほどにアルフォンスは兄の名を叫びつづけていた。そうすることしか出来ない彼は、まるきり幼い子どものようだった。 兄と同じ服装をして兄と同じように髪を伸ばし、あの頃の兄の旅路を追う。かの兄がしていたように両手を打ち合わせて錬成するため、手袋に工夫までしている弟は、以前よりもずっと儚く頼りなく見えた。 私はアルフォンスに同情する。 ああそうだな。君の兄さんは本当に酷い。 いつでも強く、揺るぎなく、誇り高い。苦しんでものたうち回っても、最後にはああして笑うのだ。その姿は髪や瞳の色以上に眩しくて、時折、翼を持たぬ人間には哀しく映る。 とても追いつけないと思う。自分たちは、彼の中でどれほどの価値があるのか――まったくないのかもしれない。そんなことはないと知っていても、不安や畏れを抱いてしまう。 私たちは常に置いて行かれる人間なのだ。 こちら側の扉の破壊は任せた、と弟に告げ、微苦笑に溶けたエドワードの表情は、孤独だったが美しかった。 兄の姿が乗り物の奥へ消えても、どうすることもできずに迷うアルフォンスの背中を、私は腕を解いて押す。 躊躇いは一瞬しかなかった。 え、と驚いたように振り返るアルフォンスの顔は、本当に見物だったように思う。 行くといい、と笑ってやると、今度こそ、その兄によく似た瞳をいっぱいに瞠った。大粒の涙が少女めいた頬を滑り落ちる。たいさ?、と唇が動く。 『扉は私でも壊せる。君である必要はない』 『……でも』 『早く行きたまえ。間に合わなくなる』 反射的に後を追って駆け出したアルフォンスは、けれど幾度も振り返り振り返りする。 ああ、あの鎧姿だったころから変わっていない、と可笑しくなって私は微笑んだ。優しいエルリック家の弟。 『大佐、大佐……ッ』 空を飛ぶ金属の塊に移り、ゆっくりと離れていく足場と私を見比べながら、彼は泣きそうに歪んだ顔で言葉を紡いだ。 『大佐!』 『元気で』 告げて私は片手をあげて敬礼をした。その私を見詰めて、少年がなお泣きそうな表情になる。 『ありがと、う……ありがとうございます! 大佐、ありがとう!』 もう大佐ではないよ。連呼されると気恥ずかしい、と苦笑いになりながら私は声を大きくした。 『鋼のに』 『はい!』 『伝えてくれ』 『はい……はい!』 涙を堪えながら、アルフォンスが轟音と共に遠ざかる乗り物の縁につかまる。身を乗り出し、私を見詰め、聞こえない! 大佐、と叫んだ。 聞こえないです、と涙を零す少年に、私はただ笑う。 いいんだ。聞かせるつもりは初めからないんだから。 何事か私に向かって叫ぶアルフォンスと、弟が追いかけて乗り込んだことなど知らないだろうエドワードは、乗り物ごと彼方へと飛び去った。おおかた異空間の扉に飲み込まれたのだろう。 無事にあちらへついてくれるといい。 見送って吐息を一つつき、私はひとり地上へと戻ってきたのだった。 「後悔、は」 「していないよ」 感情を抑えた声で言葉を紡ぐ副官に、私は即座に答えた。 「心配いらない。これでいいんだ」 彼女を振り返って笑む。 押し黙った彼女は深く一礼すると、事後処理に走り回っている昔の部下達のもとへと歩き去っていった。 私は再び空を仰ぐ。 幸せで、顔が緩むのを止めようがない。 後悔など、するわけがないだろう。 追いかけるだけが、傍に在るための方法だと思うかね? 答えは『否』だ。 私はここに残ることで、アルフォンスを解き放つことで、エドワードの心の内に居場所を作った。彼にとってのこの世界の記憶は、この先つねに私に集約されていくのだ。 エドワードはあちらで弟と再会することだろう。再会し、弟と喜びを分かち合うことだろう。けれど、その時、アルフォンスの後ろには私の影がある。 鋼の、きっと君は少しだけ癪に障るという表情をしながらも、私に感謝してくれるだろう? この先の旅路のなかで、辛いことや哀しいことがあったとき、エドワードは自分の傍らに弟がいることに必ず感謝するだろう。昔、彼らはいつだって共にあったのだから。正直を言うと、私は少々それが羨ましかった。 今や、私の気分は大層晴れやかだ。 これからエドワードは弟を見るたび、その存在に感謝するたびに、私を思い出さずにはいられないだろう。そうして心の中ででも私に問いかけはしないか。 『なぁ大佐。扉、壊せたか?』 ああもちろん壊すとも、鋼の。 扉を壊す、その共通の目的こそが、私と君との絆だ。君との間に出来た信頼関係の証なのだ。 世界の安寧を脅かすものを断ち切るために、協力して扉を壊す、という約束。 それこそは、私が親切顔でアルフォンスから奪ったものだよ。 ああアルフォンス、私に礼などいう必要はない。私は狡猾な大人だ。 エドワードは私を忘れない。昔よりもずっとずっと強く私を意識するだろう。 鋼の。 アルフォンスは君に別れの顛末を語ると思う。聞き逃してしまった伝言のことも。 君のことだから気になるだろう? 私が何を言ったのか。何を伝えたかったのか。 この後の旅路における、君の命題のひとつだな、鋼の。 そう……いつの日か、もしも万が一再会できるようなことでもあれば、その時答えをあげてもいい。 気づいてくれるほうが嬉しいが、君はこういう感情には案外朴念仁だから期待はしていないよ。 元の姿に戻った弟は君の悲願だった。それを手に入れた今、今度は君にとっての『賢者の石』は私だ、エドワード・エルリック。 笑っているときも怒っているときも、どんな時も君の心の片隅から離れることのなかった存在。そんな存在に、私はなってみたかった。 エドワード、どうか私を忘れずにいて欲しい。あの見果てぬ幻の結晶体を思い続けていたように。 いつまでも飽きずに空を見詰め続ける私に呆れ果てたのだろうか、かつての部下達が情けない声で私の階級を呼ぶ。 いい加減、その昔の階級で呼ぶのはやめてくれないか、と私は思わず溜息を零した。 そうとも、これからその階級を一足飛びに超えて、私は辿り着くために歩き出すのだから。 私は空にひとつ敬礼をすると踵を返し、喧噪と激務の待ち受ける日常へ戻っていった。 -end. |
06.1.26
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