月夜 +




 幾度めかに襲ってくる疲労と睡魔の波をやりすごすようにペンを置き、私は背もたれに体を沈めて伸びをした。

 こんな時まで、押し殺すように呼吸をする自分を可笑しく思う。深夜に渡る残業の今、この施設に居残っているのは警備兵や宿直員、それと決して多くはない深夜勤務の兵士達、それに私だけだというのに――一体何から身を潜めようというのだろう。
 生真面目で有能な部下殿と、滞っている仕事を明日までに片づけることを確約した。
 胸に手を当て誓約をして見せた挙げ句、命令をちらつかせてやっとのことで彼女を家に帰したのだ。
 平然としていても綺麗な瞳の下にくっきりと出来た隈は化粧で隠し通せるものではない。彼女は忍耐強く聡明だが、こんな時は妙に頑なになる。申し訳なさそうに何度か振り返りながら部屋を去る一歩手前で、「半分で構いません」とだけ言い残して扉の向こうに消えた。
 それが片づけるべき書類のことだと半瞬遅れて気づき、思わず苦笑いする。こんな時、あの副官がどうにも可愛らしく思えるのが常だった。



 ふと窓から覗く冴えた月明かりに、遠い場所にいるんだろう金の髪の少年を思いだす。
 生意気で可愛げがない。口が悪く、柄は小さいくせに態度が大きい。乱暴で、聡明で、繊細で――。
 ――優しい、子どもだ。
 時折痛々しいほどの金の瞳を見せる、最年少の国家錬金術師。

 自分の口元が綻んで、笑みの形になっている自覚があった。
 彼を思い出すといつもそうだ。
 本当は彼を思い出すならば同時に彼の幼なじみの少女を思い浮かべねば成らず、そのことは自分の罪業を思い出すことに他ならないというのに。
 その罪の痛みとともに感じるのはどうしようもない暖かさで、その僅かな慰めを見いだすことをやめられない。
 からかうと小気味よく食いついてくる有り様が、たまらなく楽しかった。

 あれだ、猫に似ている。
 触れたくて指を伸ばしかけても、そこで躊躇ってしまう。そんなところも猫に似ている。

 ぼんやりと自分の指を見る。
 私の手は文字通り焔の手だ。厄災をもたらし、焼き尽くす手だ。

 ――時折。

 あの猫を、柔らかく撫でてやりたい衝動に駆られる。
 痛ましいほどに強いあの金の瞳を見ると、どうしてもっと優しく触れてやれないのかと思う。

 けれど、その度にこの手で触れることが躊躇われるのだ。あの結晶のような純粋さをなんと呼んだものか。それを汚してしまいたくはない。
 私の手は、血と死臭と策謀に濡れている。

 月を見ると、あの少年を思い出す。
 旅路での彼の眠りがせめて穏やかであってくれればいいと、ひそかに願っている自分が居る。それは我ながら滑稽なほど、人らしい感情のように思え――指でひとつ机を叩いて、私は分厚いカーテンを降ろした。





- end.

05.5.2