夕暮れノスタルジア

08.7.1



 ここはどこだろう、と少年はぼんやりと思う。

 視界は夕焼けの色合いを残す淡い紺色に染まっている。古い木造の縁側の柱や桟が黒々と影絵のようだ。
 三橋廉は畳の上に敷かれた布団の上に座り込んだまま、変化していく空気の色合いをただ呆けたように見詰めていた。頭の奥が熱っぽく、夢から醒めきらずにいる自分を持て余す。
 長い夢を見ていた――ような覚えがある。
 夢の中で、地に伏して泣きながら必死で何かを訴えていた。へたり込んでいた地面は冷たく、高い体温に心地よかったが、泣き叫ぶ喉も胸も焼けてひりつくほど熱かった。
 何を叫んでいたのか、誰に向かっていたのか、どうして泣いていたのか、ひとつも覚えては居ない。微熱を含んだ、体が浮くような倦怠感だけが体の芯に残っていた。
 じわりと滲むそれを味わいながら、ああここは合宿所だった、と認識する。窓の外の空を切り取っているように見える黒い影は、干してあるチームメイトの誰かのタオルだ。
 (もう乾いてるのかな)
 どうでもいいようなことを思う。
 それよりも、自分は何をしているのだっけ、と思い出そうとする。
 しばらく思考を彷徨わせ、それからやっとのことでひとつ頷いた。
 (終わった、ん、だ)
 あれほど廉を懊悩させていた三星学園との練習試合――もうそんな時間は永遠に来ないのではないか、このまま緊張で耳鳴りがするほど強張った心を抱えたまま終わり無く過ごさなくてはいけないのではないか、と思われていた時間は終わったのだった。
そうした気持ちは受験の時にも味わったが、あの時よりもずっと廉の心をぎりぎりとした爪で締め上げていた。
 終わってみればどうということもない。夢でもみていたようだ、と廉は思う。
 ひょっとしてあの試合自体が夢だったのではないだろうか、という思いさえ頭を過ぎったが、さしもの廉でも馬鹿馬鹿しさに首を振る。試合は間違いなく現実だった。
自分の肩や腕に貼り付く疲労と熱が、脚や腰の筋肉の強張りが、現実であったことをちゃんと持ち主に知らしめている。
 けれど、と廉は思う。
 試合後の一幕は、それは現実にあったことだろうか。あれは自分の願望だったのではないだろうか。
 『ごめんな』というかつてのチームメイトの声が耳の奥に蘇って、廉は思わず呟いた。
 「な、んで謝る、んだよ」
 変だ、と廉は本気で思っていた。謝らなくてはいけないのは自分のほうだった筈なのに。
 廉の思考はゆっくりだ。ゆっくりゆっくり。
 昔、周りの同い年の級友達がとても回転数の早い生き物に思え、不安に思ったこともあったが、父母は「それでもいいんだよ」と頭を撫でて笑ってくれた。だから今でも廉はゆっくりと考える。その代わり、一生懸命に直向きに素直に――そう、ボールを投げるときと同じ気持ちで、積み上げるように大切に。
 (わからない、な)
 どれほど首を傾げても彼らが謝る理由が見つからない。けれど、廉はふと自分の手を見下ろして、分からなくてもいいや、と息を付いた。
 『また野球をやろう』と、そう言ってくれた。
 それだけで充分だった。
 何故かは理解できなくても、彼らはもう怒ってないのだ。どうしてなのか分からないけれど、みんな廉を許してくれた。嫌われていることが悲しかったけれど、どうやらみんな廉を前ほど嫌っていないらしい――そう思うには勇気が要ったが、あの畠君が初めて自分にアドバイスをくれたのだから、と廉は自分の胸を押さえた。
 廉はかつてのチームメイトが好きだった。だからこそ、彼らが自分を見詰めて「また野球をやろう」と言ってくれたことが嬉しかった。何よりも、どんなことよりも嬉しかった。
 「……ッ」
 ぱた、と涙が落ちた。驚いて、廉は慌てて頬を拭う。こんな風な気持ちで涙が零れたことはなかったから、一瞬困惑する。
 幸せなのに涙が出るんだな、と不思議にも思う。
 (そうか、幸せで、うれしい。んだ。)
 急に気が付いたように、廉は辺りを見回した。
 どうして自分は今ここに一人でいるんだろう、と思ったのだ。居るはずの人たちはどこへ行ってしまったのか。罪悪感がこみ上げてくる。
 なんてことを。すっかり忘れていたなんて。
 この怖いような嬉しさをくれたのは彼らだと言うのに――。


 「うぉーい、ミーハーシー」
 きょろきょろしながらよろりと立ち上がろうとした廉の耳に、騒がしい足音と情けないような大声が聞こえ、すばしっこい黒い影が急に飛びついてきた。
 「う、わ! ひゃあ?」
 突然の衝撃にひっくり返ったような声を廉はあげた。尻餅をつくような恰好で影を受け止める。相手も本気でぶつかってきたわけではないから痛みはない。
 「三橋ー! 俺、もぉ限界ー!!」
 廉の耳元で訴える声は田島のものだった。
 「あ、た、たじま、くん?」
 その瞬間、かちりと音がして電球がつき、部屋に光りが溢れた。眩しさに思わず廉は首を竦めて目を瞑る。
 「あー起きてた? 三橋」
 「おー、起こしたかあ? ワリ、もう田島おさえんの限界でさ」
 どやどやと入ってきたらしい声は、花井と泉のものだった。
 「ごめん三橋。体調とか平気?」
 栄口の声がして、ようやく廉は目を瞬きながら顔をあげる。眩しさに涙が滲んだが、部屋の戸口にはチームメイトが普段と変わらない様子で勢揃いしていた。
 咄嗟に視線が阿部を捜してしまう――が、目が合うとやっぱりぎくりとして目をそらしてしまうのはどうしてなのか、と廉は居たたまれない。試合中ならしっかりと見ることが出来るのに。
 「三橋ぃ、腹減ったー!」
 思考に鞭を入れたのは、田島の訴えだった。
 「腹減ったー! めしくおーぜ飯!」
 「!! !? !?」
 途端に挙動不審になってぐるぐるしはじめた廉に、花井が頭を掻く。
 「あー。ホレ、お前寝てたからさ。晩飯に呼ぶのに、起こしてくっからちょっと待ってろっつったんだけどさ」
 「だーから、俺が起こしてくるっていってたんだろ!」
 「だって田島の起こし方、乱暴じゃんか」
 「おお、毎朝さ、俺やられたもんな」
 「容赦ねェし。三橋、つぶれちまうだろー」
 「つぶれねーよ! つぶれてねーじゃん、なあ三橋ー?」
 「え、あ? う?」
 ぽんぽんと頭上で交わされる会話の速度についていけずに廉が目を白黒させていると、田島が覗き込んできてにかっと笑った。
 「まーいーじゃん。起きたなら一緒に飯くおう! 三橋」
 「めし? ばんごはん?」
 おそるおそる廉が聞き返すのへ、「そーそー」と田島が頷いた。
 「……お腹すいた」
 「だろ、だろ? 行こうぜ」
 どことなく微笑ましい子どものような会話に周囲の少年達は脱力する。
 なんだろう、疲れる。だが、やんちゃな弟たちなんてものが居たとして、その会話というのはこういうものだろうかと苦笑いしたくもなるのだ。
 「行こうか。モモカン達も待ってるし、勝利投手がいなくちゃ始まらないだろ」
 栄口が促すと、さっさと田島が立ち上がり「そーだぜぇ?」と廉に向かってニシシと笑って見せた。
 「しょ」
 今度こそ廉の目が瞠られ、鳩が豆鉄砲くらったような顔をする。
 「しょ、しょ」
 「しょーりとーしゅ!」
 お前、と田島が廉の鼻先に指をつきつけた。
 「お、おれ、か……っ」
 「勝っただろ?」
 「う」
 うん、勝ったんだ! と改めて感動して頬を紅潮させる廉に、呆れたように「おせーよ……」と花井がぼやく。その横で額に手を当てて頭痛を堪えるような風情だった阿部は、深い溜息をついた。けれど二人とも表情はそれほど険しくはない。
 「ほら行くぞ勝利投手」
 そう言って阿部が廉の手を取った。
 「う、うん」
 ぐい、と引っ張られ、廉はよろけながらも立ち上がる。その横を田島が「おっしゃ、くうぞー!」と雄叫びを上げながら駆け抜けていく。
 「うーまそうな俺の肉ー!」
 「アホだなあいつは」
 花井の突っ込みに笑い声が零れた。
 よおし田島に負けねえ、食うぞー、と口々にしながらチームメイト達は食事をする部屋に移動していく。


 廉は一番後ろから付いて行きながら、すぐ前を歩く阿倍の背を見た。
 さっき引いてくれた手を、もう一度眺める。ゆっくりと握って、開いた。
 あの手が、廉を引き揚げてくれた。駄目な投手だった自分をマウンドへ引き揚げ、サインをくれ、勝利をくれた。
 頑張っているのが分かると、投げるのが好きだと分かると、そう言ってくれた。
 ――投手として認めてくれた。
 なんて幸せだろう、と廉は思う。きっと失ったら二度と立ち上がれない。そのことを考えるととても恐ろしいけれど、今はまだ大丈夫。嫌われないようにすれば、大丈夫。
 ゆっくりと握って、開く。
 「痛むのか」
 急に影が差し、阿倍の声が降ってきて廉は竦んだように立ち止まった。
 「へ、へいき! だよ!」
 慌てて顔をあげると、廉は首を振った。幸い本当に痛みはない。けれどもしも痛がっているように思われて、使えない奴だと判断されたりしたらと想像すると廉の足が震える。
 「……そうか」
 ならいい、と阿部は溜息をついて背を向けた。その様が呆れた様子であったので、廉は自分の反応がまた苛つかせたのだと俯く。まったくどうして自分はもっと普通に振る舞えないのだろう。
 「……今日、試合の後」
 背を向けたままぼそりと阿部が呟き、廉は弾かれたように顔を上げた。一瞬、自分へ話しかけられたのだと気付けず、言葉を飲み込む。
 「さみしくないって、言っただろお前」
 「う」
 いつのことだろう、と廉は必死になって記憶を探る。反応が鈍ければまた苛つかせてしまう、と焦ったが、この時ばかりは幸運が廉に味方したようだった。割合すぐに、その場面が脳裏を過ぎる。
 『さみしくないのかよ』と叶に言われ、廉は「さみしくない」と言ったのだ。
 ――心からそう答えた。本心だった。
 「ほんと、だよ!」
 懸命に廉は言葉にした。阿部の背に向かって答える。すると、少しだけ驚いたように呆れたように阿部が振り返り、
 「それは分かってるって」
 と答える。
 廉はきょとんと目を瞬かせた。分かってるのか、と小首を傾げると不思議に暖かいような気持ちになる。
 「だから!」
 その廉に、阿部は言った。
 「それが、嬉しかった、っつってんだ!」
 語尾は乱暴だったが、珍しく廉は怖さを感じずにすんだ。阿部の顔が分かり易く照れていたせいかもしれない。そのまま阿部はくるっと背を向けると、廊下を歩き始める。
 廉は慌てて後を追いながら、今の阿部の言葉をゆっくりと噛みしめてみた。
 嬉しかった、と阿部は言ってくれた。
 (俺も、嬉しかった)
 廉は顔をあげ、阿部の背に言葉をかけようとする。けれど巧く声にはならず、情けない思いで廉は唇を噛んだ。こんな時、例えば他のチームメイト達なら上手に気持ちを言葉に繋げることができるのだろう。
 (でも)
 廉は思う。いつか、もしかしたらちゃんと言葉で伝えることができるようになるかもしれない。昔の自分ならそんな風に思えなかっただろうが、今なら少しはそう思うことが出来る。
 もう二度と野球が出来ないかもしれないと思っていたけれど、今こうして新しいチームで野球が出来ている。それならば、彼らにちゃんと言葉で思いを伝えることだって出来るようになるかもしれない。
 それまでは、と廉はもう一度自分の手を見た。
 言葉では無理でも、ボールを投げようと思う。直向きに、一生懸命に投げようと思う。
 彼らの思いに応えられるように、阿部へ信頼の気持ちが伝わるように。

 廉は白球を大切に握りしめるように、ひっそりと拳を握った。



end.