[2]




 「……ッ」
 衝撃に息を飲んだ。
 「……いつ、って」
 「ロクシス、知っていたんだろ? 僕が、普通の人間じゃないって。作られた生命だって」
 ばらばらと零れたカードが音を立てる。ちりり、と、もう一度鈴の音が聞こえた。
 「……違う」
 眩暈を覚えて私は額を押さえた。蹌踉けた拍子にテーブルに手を突き、自分の指が酷く冷えているように思う。
 「知ってなど居なかった」
 深く吐息をつく。俯いて白けたように明るい石の床を見た。午後の穏やかな日溜まりが、まるで悪意の泉のように見えるほどに恨めしかった。
 この告白だけは想定に無く、私は出来れば逃げてしまいたかったが、ヴェインはきっとそれを許さないだろう。
 「本当だ。知っていた訳じゃない。……確証などなかった」
 それにまさか、人工生命体だなどと思わなかったのだ。
 「でも、疑ってはいたんだ。そうだろ?」
 「……さっきも言っただろう。私の家系は、古くは錬金術の闇にも深く携わったような、胡散臭い歴史がある。あの女の語ったマナの話も、私にはお馴染みの黒歴史だった。錬金術が禁忌と理想を表裏一体に抱えている学問であることは、授業で教わっただろう? この学園ではあえて具体的には触れない方針らしいが、それが何か、もう分かるな?」
 ヴェインは微かに目を伏せて頷いた。
 「錬金術で人やマナを生み出してはならない。これが禁忌だ。同時に理想でもある。……どうやったら、自然の摂理と無関係に、生命を創り出すことができるか。それも単純な生命の構造ではなく、魂と知性を併せ持つ生命を。あるいは、どうしたらマナと呼ばれる超自然体の結晶生命を創り出せるか。これらのことが出来れば、生命の仕組みが解き明かされるかもしれない。……それは間違いなく、錬金術のひとつの悲願なんだ」

 当然の帰結として、この手の禁忌破りはローゼンクライツの闇の歴史にも度々登場することになる。人工生命体ホムンクルスや、人工マナの研究――禁断の、忌まわしい研究の数々の話が。
 「幼い頃、寝物語によく聞かされたものだ。ローゼンクライツの館を徘徊する、犠牲となった幽鬼達の話で、それは悪趣味な怪談話の一種のようにも思えたが、父と家を出る頃にはそれらが現実にあった唾棄すべき実話だったと知った」
 「僕が普通の人間じゃないって、疑い始めたのはいつ?」
 「……君と同じアトリエに入って、すぐの頃から」
 おかしいと疑問を持った、と告げた。私は居たたまれず、慎重にヴェインから視線を外す。
 彼のどこに違和感を持ったかと言えば、実はサルファの存在だ。
 ヴェインはサルファが自分のマナだと紹介した。いつもいつも彼が連れていた黒猫がマナだと知って、私は内心ひどく驚いた。
 通常、マナがずっと契約者の傍らに実体化していることはない。彼らは思念生命体であり、そうと見せている実体は彼ら自身が創り出す投影映像でしかなく、変化の可能な彼らは契約者の身の内に宿っている事が多い。
 「錬金術師が全員、マナとの契約をするわけじゃない。違法合法を含め、実際にはマナを持たない錬金術師の数のほうが多いくらいだ。だが高度な錬金術を扱おうとすればマナの助けが必要になるから、大抵の錬金術師はマナとの契約を望む。何故、『契約』という言葉が使われているか、君は知っていたか?」
 ヴェインは首を横に振った。
 「……そうだろうな。知っていたら、サルファはもっとマナらしい存在になっていただろう」
 君の願いに沿う形で、という言葉を飲み込む。
 ヴェインは知らなかったのだ。
 多分、山奥で隠れ住んでいた彼がサルファに望んだことは友達という役割の存在だった。マナを望んだのではない。人間の言葉と知性を持ち、彼の傍らに在ってくれる者を、彼は欲した。
 サルファに『マナ』という名称を与えたのは、恐らく彼らをここへ連れてきたこの学園の教師だろう。その瞬間からヴェインはサルファを『マナ』というモノなのだと単純に思いこんだのだ。
 「契約というものは互いに利益があるから結ぶものだ。一方的な従属や隷属であってはならない。私たち錬金術師は彼らから、文字通り『マナ』を貰う。精気、自然の力の結晶の欠片といってもいい。それはほんの少しで術に劇的な効果をもたらす。その代わり、私たちは彼らにヒトの持つ精気を渡すんだ。むろん、魔物達に吸われる生気と全く違う別物だ。マナに渡す精気とはヒトの持つ本質のエッセンスとでも呼べる物で、彼らにはそれが大層珍しく面白いものらしい」
 『つまり手を貸す代わりに、ささやかな余興を所望しておるというわけじゃな』
 いきなりどこからか私のマナの声が響き、ヴェインの蒼い瞳が瞠られてから綻んだ。
 「ああ、だから」
 『そうじゃ。構って面白くない相手との契約などごめんこうむる。こやつは案外面白かったので、掘り出しものじゃった。お前にも感謝せねばのう』
 「いい加減にしてください!」
 ほほほほ、と鈴を転がすような綺麗な高笑いを残して彼女が黙る。
 (まったく)
 肩の力が抜けた。それが彼女の狙いだったのかもしれないが、こんな風にあしらわれるのも微妙に腹立たしい。だが難儀な性格のマナでも、美しい白銀の狼の姿をした彼女を私はずっと追っていたのだから満足だった。
 「……とにかく」
 咳払いして私は「相性があるんだ」と結んだ。付き合い方に寄っては、確かに仲の良い相棒にしか見えないマナと錬金術師もいる。だが――。
 「共通していることは、自然界を離れた彼らが宿りとするのが常に契約者の身の内だということなんだ」
 「そうか。サルファが僕と同体になるのは、闘いの時だけだったから……」
 私は頷いた。
 それでも、最初はそんなマナもいるのかもしれない、ぐらいに思っていた。
 だが、ホッフェンの木の一件があり、サルファの病気の一件があり――私は次第に彼ら二人の、いやヴェインの不自然さにばかり目が行くようになった。
 「ある時、ふとアトリエにいる君たちを見てこんなことを思った。まるで、サルファが術師で君がマナでも違和感がない、と」
 想像し、慄然として苦笑いが凍り付いた。そんな馬鹿な、と思ったが、その想像はなかなか消えてはくれなかった。サルファが術師だというのには無理がある。だが、マナにも思えない。ではヴェインはどうだ。ヴェインは――。
 「私には……私の目には、ヴェイン、君がマナでも不思議はないように思えてしかたがなかったんだ」
 告白して、そろりと息を吐き出した。
 そもそも、この学園で出会った『彼』は、聞こえていた様々なテオフラトゥスの噂からはほど遠い『息子』だった。英雄に育てられたイメージも、傲慢で偏屈な隠遁者に育てられたイメージも無い。それどころか、『彼』にはどんな色もなかった。全く以て大人しい無害で無個性な人格に、私は驚きを通り越して不審な思いを抱いたものだ。
 父親の記憶がない、と聞いたとき「なるほど」とも思ったが、同じアトリエに入ってから不審な思いは募る一方だった。
 それもあって、ヴェインがテオフラトゥスの実子などではなく、テオフラトゥスが無理矢理契約を引き延ばした彼のマナであったとしてもおかしくはないと――そんな風に思ってしまったのだ。
 人工生命体ではないかと疑うよりは、余程現実的だろう。
 『喚びだしたマナを強制的に留めて呪縛する方法』に関する禁書を、私は過去に読んだことがある。マナをこちらの都合のいいように使役(対等な契約などではない)するための禁忌の術式について書かれている外法の書で、それは私の家の図書室にあった。そうと知らずに読んだ私は、以来、錬金術というものについて沈思するようになった。いずれにしてもそうしたやり方がこの世に存在することを、私は知っていたのだ。
 だからヴェインの記憶の障害はそうした術の副作用なのではないだろうか、と考えた。極端に自我が薄いように思えるのは強要された隷属の結果なのではないだろうか――と。
 あの女教師の意味深な煽り言葉や思わせぶりな態度も、そうした私のあらぬ想像を後押しした。
 全ては想像だった。だが、裏打ちされていくように起きる出来事が、私には恐ろしかった。
 「それでも、まさか人工生命体かもしれないなんて突飛なことまで思いはしなかった。ただ、君には秘密があり、それを恐らくは君自身が理解していないのだと考えたんだ。……だから」
 「……そこで、首輪、っていう発想になるのがロクシスらしいや」
 ヴェインが小さく苦笑いする。一言もなく、私は「すまない」と謝った。
 「どうかしていた。相当湧いて居たんだ」
 「いいよ。君からみたら、当時の僕はきっとものすごく危なっかしかったんだろ」
 ――言い訳をするつもりはないが、その通りだった。
 無自覚で、無意識で、いいように周囲に振り回されるだけのヴェイン。
 彼が本当にマナであるなら、いっそサルファのように首輪でも付けて契約をとりつけて目の届く範囲に置いてしまいたいとさえ思った。
 自覚のないマナなど危険極まりない。もちろん周囲の人間にとってではなく、彼自身にとってだ。
 そんなことを思うこと自体、おそらく私は、その時にはもう彼を大切な友人だと認識していたのだろう。
 いや少し違うか。
 大切な友人、と思える相手になりたいと望んでいたんだ。出逢いはどうしようもないものだったけれど、いつか――今すぐでなくていいから、ゆっくりと色々な話をして、錬金術の議論もできるような、そんな掛け替えのない友人になれたらと。
 ヴェインは――。
 「……ごめん、ロクシス」
 色素の薄い瞼を伏せるようにして、ヴェインは溜息のように謝った。
 「……何が?」
 急に謝られて戸惑う。この話の流れで、彼が私に謝るようなことがあっただろうか、と首を傾げると、ヴェインは微かに俯いたまま微かに、自分を笑うように口元を笑ませる。
 「君に、謝りたかった。ずっと。……そんな風に疑っていたからっていっても、怖かったろうし、痛かっただろうし、嫌だっただろ?」
 「?」
 何のことだ、と本格的に分からなくて怪訝そうな顔つきになってしまう。
 「……イゾルテ先生が、君を」
 「ああ」
 あのことかと得心した。やれやれと嘆息する。
 「なんだそんなことか。くだらん」
 言い切ると、ヴェインが珍しく頬に血の気をあげて私をきつく見詰めてきた。そんな表情をするとまったくどこも私たちと変わらない同世代の人間に見えるから、できればこんな顔のほうがいいなと愚かしいことを考える。
 「くだらなくなんかないだろ! 君は、殺されたんだ、一度!」
 「死ななかったろう。君のおかげで」
 「違う、僕のせいで殺されたんだ!」
 「ああそうとも」
 この分からず屋が、こういうことだけ頑固なのはどういうわけなのだか。私は眼鏡を押し上げてヴェインと対峙した。
 「君のせいで殺されたが、君のおかげで生き返った。差し引きゼロじゃないか。だから私は礼は言わん。君が謝ることもない。ちなみに怖くはなかったさ。不愉快極まりなかったがな。それでも他の誰かが引っ張られるよりは、遙かにマシだった」
 そういうとヴェインは驚いたような顔をする。やはり分かっていなかったらしい。
 「君が言うとおり、私は担ぎ出された時に覚悟した。あの女のやろうとしていることなど、見当がついたからな。……まさか、本当に瞬殺してくれるとは思わなかったが」
 は、と皮肉に笑う。まったく大した女『教師』だ。精々、半死半生くらいで留めるかと思ったのに、自分勝手な目的の為に本気で生徒を殺すとは。私のマナの唖然とした声と、グンナル先輩の「まさか」と形作られた口元と、ヴェインの蒼白な人形のような顔が、あの時の最後の記憶だ。
 グンナル先輩も、以前からヴェインの秘密に薄々気付いていたようだった。私と同じようにあの時何が起こるか予測していた筈が、私と同様まさか本気で生徒の命を奪うとは思わなかったのだろう。予測さえしていなかった他のメンバーは、あの時、何が起きたのか何故そうなったのかさえ、きちんと把握できていなかったのに違いない。
 「予測が出来たから、結末に納得もしたさ。あの後、私は君を追いつめる程問いただすこともしなかった筈だ。だが、他のメンバーではそうはいかなかっただろう」
 ヴェインは苦しそうに首を振る。私はなおも言った。
 「あの女は、一番周囲に害が少ない人物を選んだんだ。グンナル先輩と私となら、悔しいが私のほうが弱いしな」
 「……そうじゃ、ない」
 のろのろと首を振り続けていたヴェインは、躊躇いがちに私の袖を引きすぐに離した。
 「そうじゃないんだ、ロクシス。イゾルテ先生が君を選んだのは、多分、そんな理由じゃない」
 私は口を閉ざす。ヴェインが何を言い出そうというのか、興味を惹かれた。
 「彼女は知って、いたんだと思う」
 ぽつりと零れる声に滲む響きが、まるで子どものようだと思い、私は黙ったまま彼を促した。
 「知っていたんだ。君が……たぶん、君の死が一番、間違いなく確実に、僕の力を揺り起こすって」
 「何を馬鹿な。君はアトリエの誰であってもああした筈だろう」
 「それはもちろん、そうだよ。誰にだって死んで欲しくなんかない。でも、彼女は確実さを求めたんだ、きっと。それと覚醒までの時間の早さ。君を犠牲にするのが、一番素早く僕が反応するだろうと思ったんだ。イゾルテ先生は君を本気で殺したけれど、それは僕の力に確信があったせいだ。言い換えれば、彼女には本気で僕以外の人間を殺す気はなかった。でも、殺した相手を確実に蘇生させるためには、僕を出来るだけ速やかに覚醒させて力を使わせる必要がある。だから……」
 ――待て。待て待て。
 「それで、私だったと?」
 頷いたヴェインに思わず眉間の皺を寄せ、指を当てて考え込んだ。
 何だろう、このこんがらがった発想は。一体、どこから来てるんだ。おそらく発想の一端は、救いがたいヴェインのお人好しが発揮された結果、あの女教師を庇いたいという気持ちからくるのだろうが――。
 (あまりにも整合性に欠けるというか……)
 『……ほ。真実などどうでもいいわえ。面白いではないか。ヴェインとやらが、そう思っているのなら、彼にとってはそうなのであろ』
 身の内からマナの声がする。多分、その言葉は私にしか聞こえてはおらず、私はふと顔を上げた。
 「……つまり」
 ヴェインに向かって指を振る。
 「少なくとも、君はそう思っているというわけだ」
 「……うん」
 「何故」
 切り返すように尋ねた。
 「何故って言われても……」
 「そちらのほうを聞きたい。何故、君はそう思うんだ?」
 どうせ、真実などあの女に聞かなくては分からないのだし、あの女が易々と本当のことを語るとは思えない。
 しばらくヴェインは黙ったまま、窓のほうを見詰めていた。雲が出てきたのか、一瞬、さあっと日が陰ったが、すぐに明るくなる。風も出てきたようだった。
 「君を、失うかと思ったら……怖かった」
 ヴェインの声は、少し冷えてきた床に物悲しく落ちて共鳴した。それ以上に、いっそ凶暴なほどの衝撃で私をたじろがせる。迂闊と笑われるかもしれないが、まさかこんな答が返ってくるとは思いもしなかった。
 「怖かった。きっと見抜かれたんだと、思う。僕が君を失うことを怖れてるってことを」
 「……」
 「僕は、自分の未来も夢も判然としない人間だったけど、君が約束をくれた時に、はじめて少しだけ自分の将来が楽しみだと、そう思えたんだ。君とこれから先も、喧嘩をしたり腕を競ったり、まるで普通の友達みたいにして過ごせるんだったら、学園から出て山からも出て暮らしていくのも悪くないかなって。ロクシスとの約束は、僕にとって本当に大切なものだったから、その君を失うことは自分が死ぬことより辛かった」
 「……ッ」
 あやうく『やめてくれ』と叫ぶところだった。
 (冗談ではなく恥ずかしい)
 居たたまれない思いで顔が引きつったが、マナの冷気に一睨みされて言葉を飲み込む。飲み込むが、これは恥ずかしい。
 『嫌な気はせんくせに』
 (だから余計に恥ずかしいんです!)
 『ほっほ。真っ赤になって、可愛いのう』
 (やかましい! ……ですよ)
 うっかり思いきり心の中で怒鳴ってしまってから、渋々丁寧そうな言葉を選んで付け加える。不本意だが、彼女を怒鳴るなど禁物だ。
 自分でも耳朶が熱を持っているのが分かる。マナにはこの答が予想できていたのだと気付いたがもう遅い。
 その間にもヴェインは訥々と「君を失いたくなかった」と繰り返し、私は気分的に瀕死だった。こんなことを言われるのは、正直慣れていない。
 「その気持ちを、きっと、見抜かれていたんだ」
 「なるほど」
 辛うじてそれだけを口にする。分かったからもういい、と手をあげて彼を制した。
 この素直さは、凶器だな。
 はあ、と深く溜息をついたところで、ヴェインが同じように小さな溜息をついた。
 「だから、君には謝らなくちゃと思ってた。……約束も、守れそうにないかもしれないし」
 「なんだって?」
 聞き捨てならないことを耳にして、私は冷や水を浴びた気になった。
 「約束を、くれてありがとう。でもロクシス、それは無理みたいだ」
 テーブルに手を突いて、微笑んで立っている彼を呆然と見詰める。
 (何を言い出すんだ)
 「君は! 今大切だと言ったその口で、何を無理だと!?」
 何か嫌な予感がして、つい口調がきつくなる。
 「大切だよ、でも仕方がないだろ!」
 ヴェインが泣きそうな顔で反論してくる。
 「これ見てよ。この枷も、呪術も……」
 細い手首が目の前に晒された。
 「分かるだろう。……あの人達、とても珍しい生き物でも見るみたいに僕を観察していくんだ。教頭先生は、必ずここから出しますって言ってくれた。でも、出たって僕はきっとずっと追われる」
 泣き笑いに溶ける青い瞳に見詰めてこられて、私は言葉を失った。
 ――そう、それは恐らく真実だった。
 (だからこそ……なのに)
 唇を噛む。
 ヴェインは言い募った。
 「約束は果たしたいよ。……でも、それって君の側にしょっちゅう僕がいるってことじゃないか。それじゃ絶対に君に迷惑をかける。もしかしたら僕を試そうとして、また君の命を奪おうとする人が現れるかもしれない。けど、もう僕にはあの時みたいな力はないんだ……!」
 ぎゅ、と白くなるほど握った拳を両の目に押し当てて、彼は言った。
 「もう君を生き返らせることもできない。君を救うことが出来ない。そうなったら僕は……」
 「……ッ」
 堪らない。
 寄せ、と言いたいが、上手く言葉にはならなかった。
 「消えなくて済んで良かったと、本当にそう思っている。でも、僕は自分の望みを、もう」
 「うる、さい!」
 黙れ、ときつく言葉を投げると、ヴェインの蒼い瞳が私を見た。その奥が微かに濡れていることに我慢がならなかった。
 (……く、そ……ッ)
 なんだか無性に腹が立ってくる。一体、こいつが何をしたと言うんだ。どいつもこいつも、事なかれ主義の腰抜けどもが。
 「見てろ!」
 ぎり、と歯を食いしばって私は彼の細い手首を乱暴に取る。
 「ロ、ロクシス?」
 「うるさいというんだ! 黙ってろ」
 手首を目の高さにあげて、紅い呪の紋様を眺めた。ふん、こんな程度のもの――と私は突き放すようにその手首を離し、ローブの隠しから硝子ペンを取り出すと、テーブルの端に叩きつける。小気味よい音を立ててペン先が綺麗に折れた。
 「ロクシス!」
 驚愕したようなヴェインの声。
 「喚くな! 女子共か君は」
 言いながら、その切っ先で左手の掌に素早く紋様を刻んでいく。凍り付いているヴェインが好都合だ。大人しくて良い。
 一分とたたずに精確な紋様を描き終え、私は満足して笑む。痛みなど気にならない。この程度の掌の痛みなど、他の痛みに比べたら大したことじゃない。
 「寄越せ」とヴェインの手首をその掌で握り、上からもう一方の手で押さえてマナの力を借りる。
 竦んでいたヴェインの手首を離した時には、その手首の醜い呪紋は跡形もなく消えていた。――その代わり血がついているが、そんなものふき取ったら良いだけの話だ。
 満足して「ふん」と鼻で嗤う。
 「いい気味だ。どこの馬の骨ともしらんヘボ錬金術師の呪紋など、私の相手ではない」
 「……な、んで」
 まさしくぽかんとした顔をしているヴェインにも、胸の空くような思いがして思わず笑う。
 「紋章学は応用派生まで受講したか? そこの省略紋様の術式の、更に応用をしただけだ。君は少し座学が足りてないんじゃないのか。どうせ必修だけ単位をとって満足していたんだろう。それじゃ私に錬金術で勝つことは夢の又夢だな」
 わざと煽ってやりながら、なんでもないことのように手に布を巻いた。呆然と私を見ていたヴェインがはっと我に返ったように、「怪我、くすり」と呟く。
 それを押しとどめて、私は正面から彼の視線を捕らえた。
 「ヴェイン。君にはほとほと呆れ果てた」
 私は溜息を付く。そうとも、金輪際、君のたわ言には付き合わないことにたった今決めた。僅かに緊張を見せるヴェインに、指を突きつけて宣言する。
 「もういい。君は卒業式がすんだら私と一緒に来い。戦闘や調合実技はともかく、こんな程度の解式に驚いているようでは、錬金術師として私の好敵手になるには物足りないにも程がある。言っておくが、錬金術の本質は戦闘学じゃないんだぞ。旅の間にきっちり復習させてやるからな」
 「……え」
 瞠られた、青。
 「君の言い分は聞かない。とにかく一緒に来たまえ。刺客も来る? 上等だ。腕試しがてら軒並み返り討ちにしてやろう」
 「ロクシス」
 「卒業の心配などいらない」
 布を巻いた手で、まだ呪紋の残っているほうのヴェインの手首をとった。
 「いくらでもここから逃がしてやるさ」
 これを解呪して、と手首を振ってやる。脱走劇はさぞ見物だろうな、と嘯いた。どうせ、絶対にアトリエの全員が加担してくれるに決まっている。そんな面白いことから仲間はずれにしたら、生涯グンナル先輩に恨まれるだろう。
 ロクシス、とヴェインが呟いた。
 ――やはり微妙に照れる。
 私は彼の手を離して咳払いした。なんというか、珍しく熱くなったような気がするが、たまにはいいだろう。言いたかったことも、結果的に言えてしまえたし。
 「ロクシス、ありがとう」
 深い心情の籠められた柔らかいヴェインの声に、急に居たたまれない心持ちになる。「いや別に」と眼鏡を押し上げる仕草で誤魔化したが、どうにも少し恥ずかしい。
 「でも」
 ヴェインの言葉に、まだ何かぐだぐだしいことを言うのかと顔をあげたが、そこにあった彼の表情は血の気の戻った穏やかなものだ。嬉しそうな笑顔に、少しだけ悪戯っぽい表情を混ぜ、彼は言った。
 「それなら、最初に行くのは僕、西の湖水地帯がいいな」
 「……!」
 多分、私の表情はひどく複雑なものだったに違いない。嬉しさや、可笑しさや、こいつ、と小突きたい思いや――そんなものがない交ぜになって。
 「駄目だ。最初は海だな。これは譲れん」
 「えええ。じゃあ……卒業までに、カードで僕が一勝でもロクシスから勝ち取ったら、西。勝てなかったら南の海、っていうのは?」
 「ほう、良いだろう。面白い」
 ひどく胸を躍らせている自分がいる。
 「では私は海にいく支度をしておくとするか」
 「甘く見てると足下を掬われるよ、ロクシス」
 顔を見合わせ、同時に笑み零れる。あがった笑い声に、ちりん、と鈴が鳴った。
 もしかしたらずっと見守っていたのかも知れないサルファは、寝台の上から私の顔を眺めて「それでいいんだ」という風に欠伸をした。

 私が彼の部屋を辞したのは、夕食後だった。
 届けられた二人分の料理はカルナップ教頭の計らいだと聞き、私は遠慮無く彼と食事を共にした。もちろん、二匹も一緒に。
 食事中も他愛のない話に興じ、彼と錬金術の話をするのは面白いと改めてそう思った。
 「そういえば、これ、どうしよう。気付かれるかな?」
 茶を飲みながらヴェインが呪紋の消えたほうの手首を差し上げて尋ねてきたので、
 「そんなもの赤インクで適当に校歌でも書いておけ。どうせヘボには気付かれん」
 済まして答えると、何が可笑しいのかヴェインはひとしきり声をたてて笑っていた。
 彼は少し変わったように、私には思える。
 あるいは、あの時、自分の影の人格を斬り捨てたようでいてそうではなく、迎え入れて受け止めたのかもしれない。
 それはとてもヴェインらしいと、私は思った。
 あの檻の空間で「行くといいよ」と苦笑いで手を振った、もうひとりのヴェイン。もしも彼がヴェイン本人のなかへ還ることが出来たのだとしたら、それはとても幸せな結末ではないだろうか。
 そして、そんな風に穏やかに思える自分も、きっと少し変わったのだ。
 『「どえむ」な所は変わっておらんようじゃがのう』
 ふと身の内から溜息のようなマナの声がして、掌が温まる。マナが傷を治してくれたのだと分かり、私はそっと心の内で礼を言った。
 しかし彼女の言う『どえむ』とは一体なんのことなのか、相変わらずさっぱりだ。
 暇を告げた私を、戸口までヴェインは見送ってくれた。
 「明日から勝負だからな」
 と、蒼い瞳が微笑む。私は頷き、猫を呼んだ。
 「アマナ」
 名を口にすると、ヴェインの瞳が丸くなる。可愛らしい音をたてて走り寄ってきた仔猫を抱き上げて藤製の籠にいれた私に、彼は「意外」と呟いた。
 「何が?」
 「あ、ごめん。ロクシスのことだから、なんていうか、もっと錬金術に関した名前をつけるかと思ったんだ」
 ああ、と思わず苦笑いになる。アマナは道ばたに咲く慎ましい野の花の名だ。
 「……私の郷里のほうでは、夏場にアマナの花を摘んで、そこに夜光虫を入れて」
 仔猫の柔らかい毛並みを梳く。
 「夜、灯りの代わりにするんだ」
 「……へ、え」
 「本くらい容易く読めるほど、明るいぞ」
 懐かしい記憶に微笑んだ私に、ヴェインは
 「いつか、君の郷里にも行ってみたいな」
 と、そう言った。
 とても優しい言葉を聞いた気がして、私は目を瞬く。戸口から零れる灯りを背に逆光で佇む彼がひどく尊い物のように思える。
 「では、君が百回私に勝ったあかつきには、私の郷里を案内しよう」
 「それじゃあ割りとすぐだね」
 声を潜めて笑い合う。
 おやすみ、の挨拶は同時だった。
 風のある夜だけれど、良い夢をみようと思う。
 晴れた空の下、どこまでも長く続く白い道を旅していく、そんな夢を。




end.