こえ。




 どこかで水滴の落ちる音がした。
 綺麗に反響したところを見ると、落ちた先にも水がたまっているのだろう。
(――響き方からすると、結構深い、のかな)
 ロイドはぼんやりと考えながら足を組み替える。そういえば、うっすらと肌寒い。 気温を体感できる程度に退屈してきたということか。
 不思議なもので、退屈だ、と頭の中で実感した途端、欠伸が出掛かり慌ててかみ殺 した。
「どした。眠くなったか?」
 案の定、敏い相棒のからかい混じりの低い声が聞こえてくる。その声も、ここでは 水音のように響いた。
 幻聴だったらどうしようとあらぬ想像をしかけ、ロイドはため息をつく。鼻をつま まれても分からないようなしんしんとした闇のなかで、そんな想像こそ薄ら寒い。
「いや。ちょっと退屈しちゃってさ」
 わざとおどけた声を出すと、ランディが笑った。
「怪談でもするか?」
「するならもう少し楽しい話がいいよ。正直なところ」
 違いねえな、と可笑しそうな声が答え、ランディの居るらしい辺りから衣擦れの音 がする。おおかた肩でも竦めたのだろう。
 光は黒く塗りこめられている。
 凝固しかけのゼリーのような闇のなかでは音と気配だけが頼りで、居るはずの頼も しい青年の姿は輪郭さえ判別できなかった。
「まあ後ちょっとの辛抱だ。落盤のせいで来た道が塞がってるから、手間取ってるだ けだろ。あっちにはティオすけとツァイトが居る。俺らの居場所は正確に追跡できるはずだから、今頃、町長とホフマンのおっさんが別 ルートを全力で割り出してるさ」
 ランディの言うことは全くもって正しい。
 ロイドは頷いてから、頷いても見えないのだと気づき、「そうだな」と声に出して 相槌を打った。


 マインツの坑道奥へ足を踏み入れる類の要請は、もはや特務支援課にとってお馴染 みのものだ。それこそ、坑道の道順をそらで覚えてしまうくらいの数、この鉱山を訪ねている。
 鉱山を束ねているビクセン町長は、有難いことに支援課へ深い信頼を寄せてくれて いた。
 それは鉱山で働く男たちも同様で、いつの頃からか彼らは坑道の中で怪異なことや 魔獣絡みの気になるような出来事までを逐一、支援課を通して相談や報告をしてくれるようになった。
 早めの連絡のおかげで些細な出動は増えたが、代わりに深刻な事態に陥ることはほ ぼ無くなった。マインツで採取される七耀石はクロスベルにとって大切な資源であり、鉱山の正常稼動は重要事項であるから、このほうが ずっと良い。
 早い段階ならば、支援課や警備隊が出動せずとも、市の整備課や測量班、地質学者 達で事足りることも多い。
 今回のこの要請もいったん市の整備課に回った話だったが、改めて支援課に要請が 来た。
 そもそも、坑道の奥で地揺れが数度起こったのが発端だった。
 それが地盤の緩みによるものか、魔獣の仕業によるものなのか、市の整備課の初期 調査ではいまひとつはっきりしなかったので、機材をそろえて坑道深部の再調査を行うことになったのだ。
 その調査隊の護衛というのが、特務支援課の今回の任務だった。
 お馴染みの坑道へ分け入り、いくつかの分岐を経、旧坑道の入り口のひとつへベー スキャンプを張る。そこへティオとエリー、鉱夫長のホフマンと町長、調査体長と数名を残し、主要調査員三名と案内役の鉱夫一名、その 護衛にロイド、ランディ、ツァイトがついて奥へと潜った。
 鉱山にも魔獣にも手馴れて戦闘力の高いロイドとランディが先頭を行き、すぐ後ろ を案内役の鉱夫が行く。間に調査員たちを挟んで、しんがりはツァイトが務めた。ツァイトはティオと感応し緊急時には互いに知らせあう ことが出来るから、果たす役割は重要だ。
 深部に分け入っていくらもたたないうち、一行は硬い岩盤の一角に縦横に根をはり 蠢く大型の植物系魔獣に出くわした。
 さてはこいつが地揺れ原因なのではと思う暇もなく、向こうから襲いかかってく る。
 無論、この程度の事態は予測の範囲内であったから、一行は打ち合わせ通り、速や かに退路を確保し後退に入った。闘う力のない調査員達たちが居るのはこの場合不利だ。いったん出直し、支援課の面々のみで退治に来る のが定石というものである。
 鉱夫が今度は案内役として先頭に立ち、まっすぐに来た道を戻る。調査員らがその 後を逃げ、ツァイトが背後を守った。
 その後方で、ロイドとランディが盾となって魔獣の追撃を抑える。
 さんざん組んで闘ってきた彼らだったから、共闘するさまに危なげはなかった。
 ランディの炎が魔獣の根か触手か分からない不気味な長物を焼き払い、鞭のように 振るわれるそれをロイドが的確に打ち払っては叩き落す。魔獣のそれは鋼のように硬かったが、一度炎熱に煽られれば多少脆くなる。ロイ ドが隙を作ることが出来れば、ランディのハルバードで止めを刺すことが出来た。
 それでも蠢く根は後から後から沸いて出てキリがない。
 坑道の深部からメンバーが脱出したことを知らせるツァイトの遠吠えを聞いた時、 ロイドもランディも安堵に頬を緩めた。
 そこまでは良かった。
 が、異変はそこで起こった。
 それまで執拗に追いすがっていた魔獣の根が、急に苦悶するように暴れだしたの だ。
 見る見るうちに萎れ枯れ果てていきながら、ぶくぶくと膨れ上がった蕾状の巨大な 胴を捩る。魔獣の嫌な断末魔が坑道に木霊した。
 その不快な悲鳴は、ロイドとランディの鼓膜を直接逆撫でし、思わぬ苦痛をもたら した。
 歯の浮くようなざらついた痛みに堪らず耳を抑えた二人の横を、のたうつ根が暴れ まわって地を岩盤を打つ。
 油断していたわけではないが、足元の床が崩れ落ちることまではさしもの彼らも予 測できなかった。
 気づいたときには体が空に浮き、激しく何かに叩きつけられた。受身を取りきれ ず、もろに背を打ったロイドは息を詰める。
 ロイド! と名を呼ばれた記憶はあるが、上手く呼吸が出来ず返事は出来なかっ た。
 視線だけ向けた先に、自分と同様落ちていこうとしている赤い髪とコートが見え た。一瞬、血のように見えてどきりとする。
 だが、そんなこともすぐ土煙と轟く崩落の音にかき消され、ロイドの意識は暫く暗 転することになったのだ。


 意識が戻った時、あたりは真の闇で、ロイドははじめ自分が死んだのではないかと 思いひやりとした。
 無論、そんなことはない。大体、そんなことを考えられること自体、生きていると いういい証拠なのだ。
 声を出すと、すぐ近くでランディが応える声が聞こえ、ロイドは恐ろしいほど肩の 力が抜けていくのを感じた。何にせよ、相棒が無事なのは良かった。何よりもそれが救いだ。
 互いに怪我がないことを確かめてから、彼らは闇の中でじっと救出を待っている。 迂闊に動いては事態の悪化を招く恐れがあった。助けが来ることが分かっているのだから、大人しくしていたほうがいい。
「風がきてるから空気が薄くなる心配も無い。水もある、みたいだし、怪我も無い」
 指折り数えるように口にして、不安を打ち消すかのような口調になっていやしまい かとロイドは眉を顰める。見えなくて幸いだった。リーダーであるはずの自分の不安など外へ出さないようにするのが鉄則であるのに。
 一緒に閉じ込められたのがランディで良かったと、ロイドは心から思った。
 こんな羽目に女の子二人を巻き込まずに済んだ。それにランディなら、多少ロイド が揺らいだところで不安を増したり釣られたりすることもない。
 案の定、ランディはロイドの言葉に何を感じるふうもなく「ま、何より独りじゃね えってのが大きいな」とのんびりと嘯いた。
「そうだな」
 軽くロイドは笑った。独りじゃない、ということは大きい。
「ランディで良かったよ」
 先ほど頭に浮かんだ思いをそのまま口にすると、ランディはすぐに「全くだ」と相 槌を返してきた。
「特にお嬢じゃなかったのが幸いだぜ。案外怖がりだもんなあ」
「幽霊や怪談、駄目らしいからね」
 必死で隠そうとして平然と振舞う気丈な同僚の姿を思い出し、ロイドは笑んだ。魔 獣に怯むことのない凛とした彼女であるのに、どうやらそういう類のものは苦手らしい。
 本人の言ではない。彼女を見守ってきた家人たちの証言だったが、エリー自身はあ くまでも「ぜんっぜん平気よ!」と言い張っている。
 ふとロイドは首をかしげた。
「幽霊が苦手だってことだけど、暗闇も駄目なのかな」
 その二つは必ずしもイコールで繋がらない気がする。
 ややあって、微苦笑を零す口調でランディの声が言った。
「暗闇が駄目じゃない奴なんて、そうは居ねえよ」
 しみじみとした響きに、ロイドは目を見張る。声のするほうを探したが、無論、何 も見えない。なんとなく気を呑まれ、口を噤んだ。
 それは――どういう意味だろう。平然としているように思えるが、ロイドと同様、 ランディもこの暗闇に辟易していると思っていいのだろうか。それとも、ランディは暗闇が平気な人間の側だ、ということなのだろうか。
「……ランディ?」
 躊躇いながら声をかける。自分の声音に戸惑っているような色合いを自覚して、ロ イドは言葉を飲み込んだ。
「うん? どした?」
 ランディの答えはあっけらかんとしたものだ。
「いや、その」
 言葉を濁す。暗闇は平気なのか、とシンプルに訊ねればいいだけのことだが、平気 だと答えられても苦手だと答えられても、何故だか自分が返答に窮してしまう気がしてロイドは問いに詰まった。
「その、」
 目を凝らしても、赤毛の青年は見えない。益々闇が濃くなっていくだけのような気 がして、ロイドは目を閉じて俯いた。これ以上見つめていたら、相棒が闇の中へ溶けて消えてしまうような錯覚に陥りそうだ。
「……なんだ?」
 笑みさえ含んだランディの声に、少しだけほっと肩の力を抜き、ロイドは息をつい た。
 そうか、と悟る。無理をして見ようとするからかえってよくないのだ。どうせ見え ないのなら、目を閉じて声を追えばいい。そしてこの声の温度だけ辿っていさえすれば、暗闇など気にすることでもない。
(何でもいいから、話題)
 声を聞きたいのなら、話をしていればいい。
「夕飯は何にしよう?」
 努めて気を変えて話題を振ると、ランディが一瞬噴出しかけ――それから不意に 黙った。
「笑うなよ、って、……ランディ? どうかした?」
 青年が暗闇の向こうで小さく「あ」と呟いた声がする。続いて衣擦れの音と、土を 踏む音がして、彼が立ち上がる気配がした。
 思わずロイドは目を開ける。
「ランディ?」
 ざくざくと土を踏む音がし、それが自分のほうへ迷いなく近づいてくるのを聞き 取って、ロイドは目を見張った。
(……え)
 驚いている間に、近寄ってきた気配がロイドのすぐ横にどさりと腰を下ろす。
「……ランディ」
「悪りィ。気づいてやれば良かった」
 声はすぐ近く、真横から聞こえてきた。
 それどころではない。左側が温かい。肩が触れているのだ。それは、先ほどまでの 頼りない縁とは比べ物にならないほどの安心感と存在感を持って、ロイドの胸に届いた。
 頭に掌が乗せられ、くしゃりとかき回される。馴染んだランディの癖だ。
「まさか、見えてる、のか」
 ロイドの呆然とした呟きに、ランディは「はは」と笑いで答えた。まあな、と苦笑 いが混じり、さらに強くロイドの髪がかき回される。
「……正確には『見えてる』ってのとはちょっと違うんだろうけどな」
 声もないロイドをどう取ったか、ランディが口を開いた。頭に乗せた掌はそのまま だ。
「まあなんだ。暗闇のなかで活動することが多かったから、慣れてんだよ。気配とか そういうもんで補って、地形やら人間やら把握すんの。それに実はここも真闇じゃない。ってことで、俺からはお前が見えていたから、 うっかりした。ごめんな。不安だったろ」
「……いや」
 よしよし、とばかりに撫でられ、されるがままに受け入れながら、ロイドはどう答 えていいか分からなかった。
 何故だろう、胸が靄る。
(それはきっと、ここがランディにとっては暗闇じゃなかったってことが)
 衝撃だったのだ。こんな深い暗闇に慣れるような生き方をしてきたのだということ を、思わぬ形で知らされて。
「や、ほんとすまん」
 ぽんぽんと最後に軽く肩を叩かれ、掌が退いた。
「もっと早くこうすりゃ良かったな。引っ付いてるほうがあったけーし。まあ野郎二 人だが、ロイド君相手なら雪山セオリーもお兄さんはウェルカムだ。膝の間に来て、コート入るか?」
「……それは遠慮します」
 ランディが軽く笑う。
 ロイドがじっと傍らの闇を見つめていると、照れたような声に「なんだよ」と返さ れた。
「今、見てるのが分かったのって、見えてるから?」
 ロイドの質問に、ランディが笑った。
「そりゃ違う。視線ぐらい感じるだろ、お前だって」
 それもそうか、とロイドは肩の力を抜いた。はあっと息をつくと、もう一度温かい 掌に背を叩かれる。
「どーしたどーしたロイド」
「……気が抜けた」
 立てた膝に突っ伏して、「あーあ」とロイドは苦笑う。
「安心したっていうかさ、こんなことならとっとと白状しとけばよかったよ」
「何を?」
「ランディに、もっと傍に来てくれって、頼めばよかった」
 気負うことのない言葉は、ロイドの口からするりと零れた。こういう時、ロイドは 素直だ。
 反対に固まったのはランディの気配だった。「う」と返答に詰まる赤毛の青年を余 所に、ロイドは膝の上の頭をあげて尚も言う。
「良かった。声だけは聞こえていたけど、なんだか……本当にランディが居るのかど うか、とか、そんなこと考えたりしてさ。声だけだったら怖いだろ。見えないってろくなこと考えないよな」
 そういうこと口にするのも恥ずかしかったから意地張ってたんだけど――と、ロイ ドは笑んだ。
「でも、最初から条件が違ってたんだもんな。それなら素直に甘えとけば良かった」
「……ちぇ、お前はほんと」
 ランディが呟き、肩が自分の前髪を撫で上げるように動いたのが感じ取れる。それ は青年が照れ隠しの時によく見せる仕草だった。長い指が赤い髪を掬い上げる様が目に見えるようだ。
「ああ、そーだよ。お前ね、いつも言ってるだろ。この優しいお兄さんに遠慮なく頼 れって」
「そうだね」
「やっぱお前コート入れ」
 と言って、ぽんぽんと何かを叩く音がする。おおかた自分の膝を叩いて、両腕でも 広げているのだろう。口元に悪戯をしかける子供みたいな笑みを浮かべて。
「今はまだいいよ」
「いいじゃねーか、って、……? 今、は?」
「もうちょっと寒くなったら頼もうかな。そこ、あったかそうだから」
「あ、……え? そう、か? おういいぜ。頼め頼め」
 うろたえて照れたような焦ったような声になるランディが、ロイドには可笑しくて しょうがない。最近気づいたが、ランディは、よく女性にするようなギリギリの線の甘やかしを、ロイドに対して冗談まじりで仄めかして くるくせに、ロイドがそれに乗って返すと途端に照れる。平気で触れてくる癖に、ロイドが触れ返すと時折驚いたような顔をするのだ。
 本当は、自称しているほど軽くもなければ擦れてもいない。特に自分の仲間たちに 対しては、驚くほど紳士で直向きで優しい。
 安堵に息をつき、ロイドは微笑んだ。声の温度が先ほどよりずっと身近に感じられ るのが嬉しかった。
「ありがとう、ランディ」
 いいさ、と青年が小さく微笑んだ気配がする。
 少しだけ沈黙が落ちたが、それはもう穏やかなものだ。届いてくる人の気配と温度 は、思う以上にロイドの心を支えた。
「人間ってのは、ある程度までは闇に馴染むんだ」
 やがてランディが言葉を継いだ。まるで独り言のようなその声は低く、大人を意識 させる。
「むしろ、暗がりのほうが落ち着く時もある。明るいばっかりじゃ眠るのも苦痛だ ろ。もともと暗闇と明るさと両方を必要としてる生きもんだから、実際そういうのが欲しい時だってある」
 ロイドはじっと耳を傾け、口を閉ざす。ランディのこういう時の声は、耳に心地よ く綺麗に響く。まだそれほど聞く機会があったわけでもないが、純粋に羨ましい。女性なら、こぞってこの声を間近で聞きたがることだろ う。
「だが、まあそれはある一定の闇までのことさ。そこを超えると、日ごろから視覚に 頼ってる人間ほど、急に不安定になる。手を伸ばしても自分の手の指さえ知覚出来ないほどの闇。真闇って奴。目を凝らせば凝らしただ け、闇が深くなってその向こうに奇妙な模様しか見えなくなるようなタール状の重さのある闇な。そういうののなかに閉じ込められると、 大抵の奴は遠からず気が狂う」
「……」
 ぞくりとして、ロイドはランディのほうを見た。世間話でもするような、あっさり した青年の言い様に戦慄する。
 ランディが気に留めた様子はなかった。
「じゃあ、聴覚情報が中心の人間なら彼らにとっての闇は無音の世界だし、触覚が情 報の中心なら無感覚の世界こそが闇だろってことになりそうだが、それでも僅かでも視覚情報が入ってくりゃ補えちまうんだよ。脳が情報 を補うからな」
 真闇ってな凄ェよ、とランディはため息のように笑った。や、この場合、人間が視 覚に頼りっぱだってことが問題なのかね、とも言う。
「で、人間はそれを本能的に知ってるんだ。闇が深くなりすぎると、自分にとって生 命の危機だってな。だから恐れるんだ。自分にとって必要で、なくてはならないものであるはずなのに、恐れる。一歩間違うと毒に変わっ ちまう、それを知ってるんだ」
 ふ、と笑う気配とともに、再びロイドの頭にランディの掌が乗った。
「だからさ、怖くて正解なんだって」
 柔らかくかき回される。
「平気な奴ってのは、平気なんじゃなくて慣れてるだけだ。そういう奴は闇から自衛 する対処法を知ってる。あるいは動物並みに夜目が利くなら、そもそもそいつにとっては闇じゃないんだから恐れる理由もない。お前が怖 いと思ったって、それが当たり前だ。恥ずかしいことでも何でもねーって」
 な、と緑藍の瞳が細められる、その表情が見える気がしてロイドは「ありがとう」 と笑み返した。
 本当に、ランディは兄のようだとしみじみ思う。無論、実兄と違う存在なのは百も 承知だ。
(それでも)
 こんな時に、悔しさよりも安堵や感謝を先に呼び起こさせるような穏やかさで触れ てくるこの青年は、自分にとって他の誰とも違う存在なのだろうと思う。
 同時に考えてしまうのだ。
 いつになったら自分はこういう人たちに追いつけるのだろうか。亡くなった兄や、 ランディ、セルゲイ課長やダドリー捜査官、兄の相棒だったという風の剣聖アリオス・マクレイン。
(酒でも飲める歳になったら違うのかなあ)
 しみじみと横のランディの顔のあたりを眺める。この辺、見えなくても問題になら ない。いつもの距離と見上げる角度を、体が覚えているのだ。
「何だよ」
 少しだけうろたえた様にランディが言うのへ、
「何でもないよ」
 思わずため息が零れた。
「お酒を飲みたいと思う心境が少しわかった気がすると思ってさ」
「へえ。ロイドがそんなこと言うなんてな。じゃ、お前が飲めるようになったら、お 兄さんが直々に飲み方を教えてやろうじゃないか!」
「お手柔らかに」
 苦笑いすると、ランディが「任せろ」と請合う。いい店を知ってるぜ、と、先ほど までとは打って変わった剽けた口調で赤毛の青年がクロスベルのバーについて話を始める。淀みなくお酒の銘柄だの、味だの、すべて女性 にたとえてみせるあたりがランディらしいというべきだろうか。
 それでも相変わらずいやらしさも嫌味もない。
(……かなわないなあ)
 こんなところも。
 素直にそう思う。
 分かっている。ランディが他愛のない酒談義を続けているのは、ロイドへの気遣い だ。肩を触れ合わせ、体温と声を盾にして、この闇からロイドを守ろうと考えているのだろう。
(……っ)
 ふいにロイドは堪らなくなった。ランディは軽口をよく叩くが、実のところお喋り なほうではない。現にロイドにとってここが何も見えない暗闇だと判明するまでは、僅か二、三歩の距離だとはいえ向こうに座り、独りで 黙ってこの闇を見詰めていたのだ。
 ランディのお喋りに相槌を打つだけだったロイドは一瞬目を瞑ると、頃合を見て話 の接ぎ穂に「ランディ」と声をかけた。
「うん? どした」
 ロイドは答えず、顔を上げてランディの方へと手をかけて身を乗り出した。
「お言葉に甘えさせていただきます」
 彼がふざける時の調子を真似て少しおどけたように告げると、ランディの前へい ざって回る。肩の位置が分かっているのだから、見えなくても関係ない。膝の位置もすぐに分かる。
 膝頭に手をかけてひょいと間に滑り込むと、
「ハィ?!」
 完全に不意をつかれたらしいランディの、鳩が豆鉄砲を食らったような裏返った声 があがった。
「え? あの、ロイド君?」
「コート入れてくれるんだろ?」
 よいしょっと、と声をかけ、ランディの胸にぽすんと背を預ける。だいぶ身長差が あるため、後頭部が肩口に収まって、案外、具合が良かった。勢いがついてしまえばそれほど抵抗はない。抵抗がない自分もどうかとは思 うが、小さなころ兄によくしてもらった格好ではあるから懐かしく感じるのも本当だ。誰が見ているわけでもないし、まあいいかとロイド はふっきってしまった。
 ランディは無言だ。一瞬の間のあと、ロイドの両脇に立てた膝を囲うようにコート を手繰り寄せてくる。
「重くないか?」
 完全に背を預けきってロイドが聞くと、「もっと重くてもいいんだぜ、ロイド君」 と可笑しそうな声が低く笑った。
 その体勢でランディが喋ると、自分の体に声が響くことに、ロイドは気づいた。
「寝てもいいぜ。救援か魔物のどっちかがきたら起こしてやる」
 青年が言う。
「うん」とロイドは頷いた。それから「魔物は嫌だなあ」と苦笑いする。
 背が温かかった。人の体温に寄り添う温かさは久しぶりだ。大人になってしまうと 恋人でも出来ない限り、そうそう他人の体温に長く触れ合う機会などない。
 本当に眠くなってきて、ロイドは力を抜く。
「寝ちまえよ」
「……ごめん。ちょっとだけ」
 気にすんな、とランディが笑った。
 暗闇も水音も気にならない。目を閉じても闇なのは一緒だが、今度は別のものが背 から伝わってくる。体温と鼓動と呼吸。それから――。
「……あったけーのな」
 低い独り言のような呟きは、ひどく優しく幸せそうな響きをもって、ロイドに伝 わった。


 心配そうな顔をした仲間たちが救援に現れた時、ランディとロイドの体勢に絶句し たかというとそんなことはない。ツァイトがいち早く知らせに訪れたため、ロイドを起こしたランディは発破をかける作業に内側からちゃ んと協力していたからだ。
 そんなわけで、赤毛の青年の胸にもたれて子供のように寝込んでいたロイドの姿を 見たのはツァイトだけだった。
 無論、彼は色々な名誉にかけて目撃したものについて口を噤んでいる。
 ロイドの無防備な寝姿と、そのロイドの頭をごく自然に抱え寄せていた青年の姿。
 この二つは、誇り高き狼王の胸にしっかりと仕舞いこまれることになったのだっ た。





End.