第五章-1 窓がいつつ




 その夜は、紅竜の記憶にあるうちで最も辛い闘いとなった。

 もっと長かった戦闘もある。もっと悲惨だったものも――命を磨り減らすような激戦など、その後数知れず味わった。
 にも関わらず、この砂漠の夜を駆けた闘いは紅竜の脳裏に焼き付いている。
 予想以上に暗い夜だった。
 竜の夜目を持ってしても、高度を少しあげれば地上の様子の判別が難しい。それほどに暗かった。
 戦闘は長く、長く続いた。
 奇襲は成功し、多くの捕虜はこれを幸いと収容所から逃げ出していく。その彼らの背を守るように、契約者の青年は竜の背から敵陣のまっただ中へ降り、水を得た魚のように修羅と化した。
 捕虜達には、彼が救世主に見えたろうか。
 だが、凄絶な笑みを浮かべながら剣を捌き、返り血を浴びる青年は愉しげで、竜の目には悪鬼に映る。彼は逃げる兵達の流れに逆らって、唯一人敵兵の多い方へと突っ込んでいくことに、悦びを感じているのだ。
 斬られても動じさえしない。痛みをそれほど感じていないのだから当たり前だが。
 ただひたすら剣を振るい、神器を使い、陶然と戦に酔いながら辺りを鮮血に染めていく。そのような姿を見ても腰を引くことなく向かって行くのだから、帝国兵達もまた正気とは言い難い。
 紅竜は炎を落とし、翼で風を呼び起こして煽った。合間には、血臭を嗅ぎ付けて上空から現れる魔物達を排除していく。
 地上を焼き払う際、配慮するべきは逃亡していく捕虜達だったが、彼らは状況の飲み込みの早い仲間の誘導によって、転けつつも収容所周辺から脱兎のごとく逃げ出していく。落ちている武器を掴み、中には踏みとどまってカイムの援護をしようと試みる勇者も居たが、その者達には紅竜が『逃げよ』と叱咤した。ただの人間達に――それも手負いの者に居残られては、かえって邪魔なのだ。
 ヴェルドレの思念を捉えることが出来たのは早い段階で、彼は思念で会話を交わしていた相手が竜と知って驚いた様子だった。
 こちらの意思を伝えると、心得たとばかりに捕虜達の誘導を手伝いながら、周囲の捕虜兵の護衛を受けつつ、連合の後続部隊へと早々に引き揚げていく。同じ契約者として、その持てる力の程が推測できるのだろう。足手纏いにならないよう素早く前線から離脱したのは賢明な判断といえる。
『イウヴァルトはどうした? 一緒ではないのか』
 竜の問いに、神官長は『分かりません』と、苦渋の滲む思念で答えた。
『無理矢理、引き離されました。どうやら別の場所に連れて行かれたようです』
『どこへだ!』
 青年の思念が怒声のように割り込む。
『分からぬ。すまない。だが、この収容所からはイウヴァルトの気配が感じられぬ。彼はおそらくここには居ない』
 荒くれの傭兵が口にするような呪詛の言葉と舌打ちが届いたのは紅竜にだけで、彼女はそれを幸いなことだと溜息を付いた。仮にも元王族が口にするような言葉ではない。が、幼馴染みと妹の存在は青年にとって最後の縁なのだろう、そうと思えば窘める気も失せる。
『取り敢えず、ここを片づけるぞ』
 カイムの思念に、紅竜は是と答えた。
 ヴェルドレは無事逃げおおせたが、捕虜達の逃亡は続いている。彼らの援護を放棄して置き去りにすることは出来ない。
 収容所の中に単身斬り込んで行く契約者を後目に、紅竜は周囲に集まってくる帝国兵をことごとく薙ぎ払い、炎に沈めた。
 牙を向けてくるならばそれは敵だ。竜に刃向かって害を成そうとする身の程知らずなど、返り討ちにあうのが当然なのだ。死を怖れるなら敗走すればよい。紅竜は逃げるものの背を焼こうとまでは思わない。
 だが、焼き払っても焼き払っても、帝国兵は敗走の気配すら見せなかった。
 このような捕虜の収容所など適当に見捨てて撤退すればよいものを、執拗に捕虜達を追撃し、カイムや紅竜を取り囲もうとする。相変わらず、教え込まれた動きを繰り返す絡繰り人形のようだ。
 間断なく現れる増援部隊にも、いい加減辟易した。一体、何を考えているのか理解に苦しむ。
 孤立している自分たちの周囲を、情け容赦なく何度焼き尽くしたことだろう。殲滅してしまうことが主目的ではない筈なのだが、このままでは砂地も見えないほどの死体で覆い尽くしてしまうのではないだろうか。
 さっさと帝国側が退くか、こちらの軍の撤収が済むかして欲しいと紅竜が切実に思い始めた頃、ヴェルドレから捕虜兵たちの保護と後続部隊の撤収が済んだと思念が届いた。

 駐屯地に一端引き揚げたものの、闘いはそれで終わったわけではなかった。
 今度は「砂の神殿」に帝国兵が集結していると言う。
 ヴェルドレとの顔合わせもそこそこに、紅竜と青年は神殿に向けて出立せねばならなかった。何にせよ、封印は死守せねばならない。
「頼む、急いでくれカイムよ。封印が破られれば、おぬしの妹の体にも大きな負担がかかってしまう」
 神官長に言われるまでもなく、そんなことは誰もが理解している。神殿の封印が支えている負荷の分が、そっくり人柱にのし掛かってしまうのだ。
 最初こそ元王族らしく殊勝げにきちんと礼をとった黒髪の青年だったが、そういうヴェルドレを一瞥すると、血塗れの剣を翳し『心配せずとも、お望み通り殺し尽くして来てやろう』と嘯いた。そのまま剣を担いだ拍子に、返り血を含んだ鎖鎧が粘着質の音を立てる。暗がりで分からないのが幸いだ。おそらく全身酷い有り様であることだろう。ただの人間ならば、疲労困憊の余り、口をきくことさえままならない状態の筈だった。
 カイムの台詞を聞いた途端、神官長の顔色が変わる。
「何ということを……! そ、そういう意味ではない。封印を破らせなければ良いのだ、カイム。帝国兵といえど人の子。そうまでせずとも慈悲をもって穏便に……」
 ヴェルドレの言葉の途中から、青年の表情が呆れ果てたようなものになる。
「そやつに説教は無駄だ」
 紅竜は遮るように言った。この不毛な会話に実りなど無い。青年も青年だが、闘いに行けと命じながら、一方で穏便にすませろなどというこの老人も大概である。
「その男は世界がどうなるかより、己の恨みを晴らすことで頭が一杯なのだからな」
 竜の言葉を、青年は否定も肯定もせず、ひょいと肩を竦めてみせた。
 ヴェルドレは「おお神よ……」と嘆き祈る。
 その瞬間、紅竜は酷く腹立たしい思いに駆られた。まったくどうしてこう人間達は勝手な連中ばかりなのだろう。己が契約者が自分勝手な復讐者であることは否めないが、その青年を盾としながら、慈悲だの憐れみだのを押しつけてくるなど笑止の極みではないか。
『祈る者と殺す者に何の違いがあろう? 一皮剥けば人間など皆おしなべて愚劣よ!』
 傲然と斬って捨てる。声音にはたっぷりと皮肉の棘を籠めた。黙り込んだ老人を後にして、彼女はさっさと背を向ける。
 だから紅竜は、青年が何か物言いたげに彼女を見ていることには気付かなかった。

 いずれにせよ、紅竜とカイムは再び闘いの地を踏むことになる。
 砂の神殿は収容所の東、空を駆ければ大した距離ではない。そこで待っていた戦闘は、先程の戦闘に輪を掛けて、熾烈で過酷だった。
 エルフの血で染めた鎧を纏った兵士達が、胸の悪くなるような匂いのする革袋を持って赤黒い液体を撒き、砂地を穢していく。
 それはそのまま聖なる場所の穢れとなった。
 目に見えない清浄な封印の糸が、細い折れるような音を立てて砕き割られていく、その響きが聞こえてくる。女神の娘の背骨を軋ませる悲鳴にも似て、竜は気が気ではない。
 それは青年も同じだったろう。
 手数を増やした連合の応援部隊が主だった侵入ルートを塞いで増援部隊の到着を阻んではくれていたが、神殿の周囲の最前線は相変わらずカイムと紅竜のみだ。
 剣撃の音の数が尋常ではなかった。
 囲まれて集られては流石の青年でもひとたまりもないから、竜はその頑丈で大きな体を割り込ませて壁にする。
 肉を断つ音も、聞くに堪えない濡れた音も、非現実的な音楽にしか聞こえない。こんな戦闘は、常人なら気が触れてもおかしくはなかった。
 そこを黒髪の青年は愉悦に笑んだまま、駆け抜けていく。暗い戦場で、彼の目は的確に赤黒い鎧の兵を見抜いて斬り、鮮血に沈めていった。一撃には無駄が無く、どこまでも冷徹だ。
 だが契約者としての力を目一杯使っても、形勢は不利だった。
 湧いて出てくる魔兵らしき影が厄介だ。怪しげな技を仕掛けてくる彼らは契約者達の天敵だった。

 ――長い夜だった。
 結果として、封印は守りきれず破られる事となる。
 エルフ達の血で穢された上、邪な外法の徒に踏み荒らされたのでは、ひとたまりもない。もはや闘いでどうにかなるような状態ではなかった。
 徒労感に打ちのめされた契約者達の手に残ったものは、砂漠の片隅にうち捨てられていたイウヴァルトのハープだけだった。
 そのハープは全く偶然のように、運命のように黒髪の青年の手に渡ったのだ。
 戦場のただなか、闇よりも深い夜の底が急に明るくなった瞬間があった。いつの間にか中空に登っていた月が、雲の切れ間から顔を覗かせたのだ。
 蒼白い月光は儚く、それでも暗さに慣れていた目を強く焼いた。眩しさに目を細め、夢から醒めるような心持ちで辺りを見回した紅竜の視線の先で、そのハープは砂に半ば埋もれていた。
 あれを見ろ、と声を掛けると、カイムは無言で敵兵を蹴散らしながらそこへ向かい、ハープを拾い上げた。イウヴァルトのものか、と尋ねるまでもなく、青年の表情を見て竜は悟る。
 あとは、互いにすっかり忘れたように闘いの中へ戻った。
 もはやこれまでと撤退を余儀なく決断した時、はじめてカイムは魂が沈んでいくような深い溜息を付き、手の中の拾い物を見た。
 駐屯地へと戻る紅竜の背の上で、青年は言葉もなくじっとその楽器を抱えていた。

 紅竜が、初めて背が重いと感じた瞬間だった。





(10.11.27)


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