第五章-2 窓がいつつ




 爪弾かれる弦の音は途切れ途切れで、大して響きもしない。
 いや、もしかすると奥の天幕に休む女神に聞こえぬよう気遣い、響かないように弦を弾いているのかもしれない、と紅竜は思った。
 駐屯地のいっとう外れで、カイムは焚き火を前にぼんやりとハープを抱えていた。時折、思い出したように指が弦を手慰む。
 炎に映し出される青年の横顔はぼんやりと抜け殻のようで、水を湛えたように光を跳ねる瞳がただ青かった。
 どこも見ては居ない。
 彼の内は虚ろで、風さえ薙いで静かだ。どのような思念も竜に届いては来ない。
 青年は駐屯地で湯を使わせて貰ったらしく、こざっぱりと新しい衣服に改めていた。鎧も剣も打ち直されて届けられているが、傍らに除けてある。さすがのカイムでも、今は鎧を纏う気にはならないらしい。軽鎧でも、疲弊した体には重いのだろう。
 肩から厚手の毛布をかけ、ハープを卵のように抱え込んでくるまっている。その様子には、拭えない倦怠と疲労が滲んでいた。
(無理もない)
 紅竜は炎の傍らで大人しく身を丸めながら、青年を見ていた。唯の人間ならば、心臓が止まってしまうほどの運動量だ。加えて極度の緊張と、精神への過負荷。自失程度で済んでいることのほうが不思議なのだ。
 さっさと寝たらいいとは思うが、疲労も度を超すと眠れなくなるというから、紅竜も口を噤んでいる。
 尋ねたのは一度きり。紅竜が近くのオアシスで水浴びを終え、戻ってきた折りに『食事はしたか』と聞いた。青年は上の空で頷き、後はずっとこんな調子だった。
 まもなく夜明けが来るような刻限だ。ほぼ一晩中、闘いの中に居たことに竜は改めて溜息を付く。
 そろそろ眠るよう促すべきかと彼女が思った頃、
『音がひとつ出ない』
 ぽつりと、独り言のような声が届いた。
 紅竜は琥珀の瞳を瞬かせ、少し躊躇ってから『弦が切れたか』と返した。
『そのようだ』
 頷いたところをみると、これは会話で良かったらしい。紅竜は少しだけ首を起こした。
『……何か、弾くか?』
 言葉を選ぶ自分に可笑しさを覚える。何を気遣おうというのやら。
 だが、ややあって返ってきた青年の声の響きに、紅竜のなかから自嘲するような色合いは溶けて流れた。
『弾けん』
 竜は押し黙った。カイムの声にこそ、悲哀混じりの自嘲があった。
『弾けん。……子どもの頃から、俺はこの手のものに全く不作法で、よく母に笑われた。あいつが、羨ましかったな』
 ひとつ、青年の指が弦を弾く。毛布のせいでくぐもった音にはなるが、それでも優しい音がした。
『あいつは音楽と歌とに才があった。国を訪れた吟遊詩人達はみな世辞でなく、手放しであいつの喉と指を賞賛した。あいつが十の折りの楽祭では、歌神の大役を見事に務めてフリアエから常緑の冠を受けたんだ。フリアエは嬉しそうだったな。俺は、誇らしかった』
 堰が切れたかのように、訥々と零れ出す言葉を紅竜は黙って聞いた。
 誇らしかったと言うカイムの表情は穏やかで、口元には懐かしむような笑みが浮かぶ。
 黒髪の契約者の子ども時代を想像するのは難しいが、幼いフリアエとイウヴァルトの姿は何故か容易に想像できた。きっと今よりもずっと血色の良い丸い頬をして、花のように無邪気に笑っていたことだろう。屈託のない姫君が豪華な愛らしい衣装を着て、誇りに頬を紅潮させた少年の頭上に冠を授ける、その場面が目に浮かぶようだった。
 そして、その光景がそのまま先程の娘の姿と重なる。
 純白の女神の衣装よりもまだ蒼白い顔をして、彼女は兄の手にあるハープを凝視していた。イウヴァルト、と名を呼ぶ唇が震え、無表情だった青い瞳が震える。
 兄が手を伸べるよりも早く、彼女はその場に崩れ落ちた。慌てて駆け寄ったヴェルドレの手を拒み、女神は幾度も嗚咽を噛み殺しながら『大丈夫。大丈夫です』と譫言のように繰り返した。
 だが、女神の慟哭は悲鳴となって紅竜の中を吹き荒れた。
 イウヴァルトを呼び、謝り続ける――その、嵐のような女神の嘆き。叩きつけるような悔恨と懺悔は、まるで雹のように竜の心を打った。
 体に障る、と、ヴェルドレは女神の世話係らしく、フリアエに術と薬を施し駐屯地の再奥にある造りのしっかりした天幕へと連れて行った。
 取り残された青年と竜は、躊躇いがちに現れた老将の案内で、駐屯地に休む場所を貰ったのだ。
『弟のようにも思っていた友人だった』
 黒髪の青年の言葉は、雨音のように地に落ちた。
『本当に兄弟になれるのだと、嬉しかった』
 寂しい述懐だ。言葉の合間に弦を弾く音が落ちる。
『あやつの命を諦めるのは早かろう。イウヴァルトが怒るぞ』
 拙い慰めだと自覚しながら、紅竜は言う。イウヴァルトは女神の身代わりになっていたのだ。正体が暴かれてなお、無事でいられる可能性は高くはない。
 青年は肯定も否定もしなかった。
 代わりに、ふと顔をあげる。薄蒼い瞳には、少しだけ生気が戻ってきていた。
『……ドラゴンには雌雄がないと聞いていたが』
 唐突なカイムの切り出しに、竜は『その話か』と溜息をついた。不快に感じることが出来るほど、気力が残っていない。無礼だと突っぱねるには、疲れすぎていた。
 紅竜は渋々と思念で応じた。
『然り。我らは無性で単一性だ。基本的にはな。長命で頑健なドラゴンたる我らには、我ら以上の生き物がおらぬ。故にせっせと種族を増やす必要性などない。……だが、生き物であればいずれ子は必要となる』
 それで、と青年が促しているのが分かる。
 竜は言葉を継いだ。こんな話が気晴らしになるのであれば、結構なことだ。少しは気を紛らわせて、眠って貰わねば困る。
『要するに、種の継続のための循環周期が人間と比べて遙かに長い、というだけのことだ。数千年に一度か、万年に一度ぐらいか、子を育む責をもつドラゴンが生まれる。性別というのとは少し感覚が違うが、体もそのように生まれつく。子世代を守らねばならぬからな。ドラゴンの中でも秀でて硬い鱗と強い翼を持ち、最も高い熱の炎と魔力とを備えた生命力の強いドラゴンだ』
『……それがお前か』
『まあ、そうだ』
 答えた紅竜の声色をどうとってか、カイムが僅かに首を傾げた。
『不満なのか』
『別に、そうは言わぬ』
 黒髪の青年は微かに笑ったようだった。
『子は?』
『いいや。……っ、いい加減にせんか。不躾にもほどがあろう』
『これは失礼』
 小面憎い口をきく、と幾分むかっ腹を立てた紅竜だが、やっと肩の強張りを解き、凪いだ目をした青年を見ていると、まあ良いかという気分になった。
 カイムは再び炎に目を戻すと、口を閉ざした。
 話は終わりか、と首を下ろしかけた紅竜に、『そうだ』と青年が何事か思いついたように声をかける。
 無言で琥珀の瞳を向けると、薄蒼い視線がゆるりと竜を見上げた。
『そういえばお前、おかしなことを言っていたな』
『何の話だ?』
『俺がひとりで闘えるのを喜んでいると、お前は言った』
 紅竜は怪訝な思いに首を傾げる。確かにそんな話をしたが、それがどうかしただろうか。
『別に独りではないだろう。お前が居るんだから』
 紅竜は息を詰めた。
 ――完全な不意打ちだった。彼女は反射的に視線を逸らす。何故か、青年の視線が耐え難い。
 あの時に感じた胸のうちの軋みと罅が溶けて塞がれていくのを、竜は奇妙な焦燥と羞恥を持って感じていた。何故、このような他愛のない一言が自分を揺さぶるのだろう。
『……そうであったな』
 もぞりと呟きを返すのが精一杯だった。それきり伏せて、寝入る振りをする。
 次に青年が何を言ってくるか、紅竜は気が気ではなかったが、話はそこで終わりのようだった。
 ただ、閉じた瞼の向こうに、カイムからの視線を感じる。
 それが不快ではないことを不思議に思いながら、紅竜は浅い眠りに落ちていった。





(10.11.28)


back  top  next