第六章-1 地下室はむっつ




 死んでしまう、と、紅竜は思った。
 死んでしまう――契約者の青年が。





 襲撃は夜明けのことだった。
 油断した――多分、それに尽きる。
 もっとも感覚に優れた肝心の契約者たちは、みな疲れていたのだ。肉体的にだけではなく、精神的に。
 ほぼ夜を徹した戦闘の挙げ句、封印も守りきれず徒労に終わってしまった。
 駐屯地へと近寄ってくるイウヴァルトの気配を察知した時、カイムやヴェルドレが感じた、喜びと安堵の思いを責めることはできない。
 フリアエもまたイウヴァルトの気配に気付いた。ある意味、女神も能力者だ。
 娘は喜色に涙ぐみながら、ヴェルドレの手を振り払って天幕を飛び出し、赤毛の青年の気配の在るほうへと駆けた。歩くのも覚束なかった女神の足に生気が宿ったことを思えば、いかにイウヴァルトの生還が彼女にとって喜ばしかったか分かる。
 姫君の後を追うようにカイムとヴェルドレが続き、紅竜もまた駐屯地の境界を越えた。
 違和感を覚えなかったわけではない。
 罠ではないかと思ったことも事実だが、それでも止めることをしなかったのはイウヴァルトの生還を喜びたい気持ちが、紅竜のどこかにあったからだ。
 己が契約者とその妹姫の嘆きを、紅竜は昨夜味わった。それだけに、イウヴァルトが無事でいたというのなら素直に歓迎したかった。自分が付いていればまあ大事にはなるまい、という慢心もあったことは否めない。
 赤毛の青年は駐屯地外の砂礫の荒れ地に佇んでいた。
 その泰然とした様子に、近寄る足を止めたのは黒髪の青年だ。
 傍らへ音もなく紅竜が舞い降りる。
『カイム』
『……ああ』
 ――様子が変だ、と。紅竜が告げるまでもなく、青年の腕が妹と神官長を制した。改めて見れば、カイムはきちんと鎧を身につけ、剣を携えている。こういう時に抜かりない辺り可愛気がない、と思いながらも、紅竜はひそかに安堵した。
 イウヴァルトの様子は、一言で言えば全く彼らしくなかった。生還と再会を喜んでいる風もなく、口元に湛えた笑みはどこか冷たい。
 無言でカイムが差し出したハープを一瞥し、無造作に受け取って弄びながら「もう必要がない」とほくそ笑む。
 同時に、バサリと大きな翼の音が頭上を覆った。
 赤毛の青年以外の全員が弾かれたように空を見、そのまま凍り付いたように身を硬くして息を飲む。
 ――黒竜……!
 フリアエの表情が引きつり、はっきりと恐怖に脅えた。紅竜を初めて見たときの反応とは全く違う。
 カイムの薄蒼い瞳が剣呑な光を宿し、苦渋に満ちた眼差しを真っ直ぐにイウヴァルトへと向けた。背に負った剣の柄に指が掛かる。
 紅竜は茫然とした。
(気配を、感じなかった)
 紅竜は飛躍的な力を身につけた契約竜だ。こんな間近に来られるまで、同族の気配にも翼の音にも気付けないなどということがあるだろうか。
 あるとすればそれは――。
「イウヴァルト……! そなた、いつのまに契約を……そのドラゴンと?」
 ヴェルドレの戸惑ったような言葉が全てを物語る。
 赤毛の青年の、厳ついがどこか牧歌的だった表情は一変して、力に溺れる者そのものだ。喉に蛇のように巻き付く黒い紋様は、紛れもない契約印だった。
「歌を失ったが、俺は力を手に入れた」
 得々と嘯くイウヴァルトに、
「……歌を代償に、だと」
 思わず紅竜は呻く。なんという愚かな事を、と、苦い思いに琥珀を閉じた。
 本当に人間とは、どうしようもない生き物だ。音楽と歌こそ、人間とエルフに与えられた美しい恩恵であるのに。魔には持ちようのない、純粋な綺羅の結晶。音楽と歌を生み出す力は、何にも代え難いものなのに。
(常に、人だけがそれを知らない)
 美しい旋律、魂を揺さぶる詩、それを紡ぎ上げながら、常に当の人間だけが自分たちの秘めたる価値を知らない。
「馬鹿者めが」
 紅竜は残念でならなかった――己の契約者のためにも。
 カイムの薄青い瞳に、悔恨が揺らぐ。イウヴァルトに恨み言をぶつけられながら、黙って彼の目を見つめ返していた。
「フリアエは連れていく。復讐のためなら妹をも犠牲にするお前より、俺はずっとまともだ!」
 カイムに指を突きつけ笑う、狂気に満ちたイウヴァルトの瞳は赤い。帝国兵たちと同じだった。
「……堕ちたか」
 紅竜は呟いた。やはり、どのような魔導の術を使ってかは知らないが、これはおそらく洗脳なのだ。心と思考を奪い操る、外法の力。
 だが、強い意志を持つ人間にそういった類の術が容易に効かないことも、また竜は知っていた。イウヴァルトは、自ら吐露した通り、カイムへの劣等感とフリアエへの恋情に付けこまれたのだ。
「来い、フリアエ」
 伸べられた手から逃れるように、女神の娘が後退る。彼女の視線はイウヴァルトを通り越し、その背後の黒い竜を見ていた。
 禍々しい黒い姿から隠すように、ヴェルドレが女神を背に庇う。入れ替わるように、黒髪の青年が進み出た。
『カイム』
 紅竜が低く名を呼ぶ。青年は無言だ。思念も硬く閉ざされている。蒼い目は戦いたくないと言っていた。剣も柄を握っているだけで、抜こうとはしていない。
『……カイム』
 竜は微かに焦る。初めて見る青年の苦渋に満ちた姿に、彼女は動揺した。カイムの気持ちは痛いほどに分かるが、目の前の赤毛の青年はすでに契約者だ。
 油断をすれば――。
 ――死。
「カイム。お前のその目が、俺は死ぬほど嫌いだった」
 伸ばした手を拒み、逃れようとするフリアエに、イウヴァルトは唇を歪め憎々しげに青年のほうを見た。
「俺を蔑んで、憐れむようなその目が……ッ」
 じり、とイウヴァルトが距離を詰める。剣が抜かれた。
 カイムの手は、未だ剣を抜かない。
「やめて、やめてイウヴァルト!」
 掠れた悲痛な娘の声が空気を裂いた。やっとの思いで言葉を絞り出したのだろう。痛々しいほど、言葉が詰まる。
「兄さんをまた傷つけるなら許さない! 私、今度は絶対に許さないから!」
 ――これまでに聞いたどんな女神の声よりも、情感の溢れた生々しい叫びだった。神官長に制されながら、フリアエの細い腕が伸ばされる。
「許さないから! イウヴァルト!」
 女神の涙混じりの声と、
「僕を、そんな目で見るなぁァァアアアア!」
 狂乱じみた雄叫びを上げながら剣を振りかざしたイウヴァルトの斬撃を、辛うじてカイムが引き抜いた剣で受け止めるのが同時だった。
「カイム!」
 紅竜の気が一瞬逸れる。
 黒髪の青年の見せる躊躇いが、竜の焦燥を煽った。青年が本気を出せば、少なくともイウヴァルトなど敵ではないのだ。いくら契約者として同等になったとはいえ、そもそも持てる剣技の力量がまるで違う。
 だが、今のカイムの剣には、普段の覇気がない。闘気もない。
 彼にとって、この幼馴染みは致命的な弱点なのだと、紅竜は悟らざるを得なかった。
 しまった、と、思う間もなく、黒い疾風が紅竜を薙ぎ倒す。強かに打ち据えられて、一瞬紅竜が息を詰めた。
 万力のように両の翼を拘束される。反射的に仰け反らせた喉に、鋭い牙が容赦なく突き立てられる。
 紅竜は湧き上がる怒りに痛みを忘れた。この紅き翼を持つ竜に向かって、なんという狼藉か。
 藻掻き、暴れるが、彼女を拘束する力は少しも揺るがない。
(負けるわけにはいかぬ)
 誇りにかけて。こんな相手に負ければ、己が契約者に顔向けが出来ぬ。
 ぎり、と睨みあげた琥珀を、黒竜の底知れぬ闇を湛えた紅い目が嘲笑した。
 ――甘イ血ダ。
 思念の内側をなぞりあげるような、声。
 紅竜は、鱗が逆立つような思いで身を震わせる。生まれて初めて、戦慄する、という感覚を味わい――いっそうきつく琥珀に力を篭めたのだった。



 だが、状況は一変する。
『貴様ぁ……ッ』
 響いたのは、カイムの怒号の思念だった。
 信じられない思いに、紅竜の頭は一瞬空白になる。青年が剣を握り直し、あろうことかこちらへ向かって走ってこようとしているのだ。
 紅竜を凶暴な力でねじ伏せ、喉笛に喰らいつき揺さぶっていた黒い竜が、その青年に気付いた。
 我に返った紅竜を支配したのは、凍るような焦りと――怒りだ。
『来るな、馬鹿者がッ』
 咆吼する。人の身で、竜と竜との闘いに駆けて来ようとするとは何事か。青年が如何なる理由でか「竜」という存在を憎んでいることは知っていたが、目前の自分の敵を放置してまで駆けてくるほどのことか。
 戻れ! と、紅竜は尚も叫んだ。噛み裂かれている喉が嫌な音を立てたが、気にしている場合ではない。彼女は渾身の力で黒竜を押しのけようと試みたが、逆に頭を鷲づかみにされ、地に叩きつけられた。
 肉食である黒竜の鉤爪は獣のように指状となっていて、対象を捻り切ることが出来る。そこに常の彼らには無かった力が備わっている今、地上での掴み合いで紅竜に利はなかった。
 黒竜が嘲り笑ったのが、紅竜に伝わる。彼女を乱暴に突き放すと、勝ち誇ったような翼の音とともに、黒竜は舞い上がった。
 炎を吐く気か――。
 眩暈を起こすほどの勢いで頭を地面に叩きつけられた紅竜は、蹌踉けるように身を起こした。
 ――死んでしまう。
 黒竜は、まるで小馬鹿にするように青年を狙っている。このままでは青年が死んでしまうと、紅竜はそう思った。
 無論、そんな筈はない。
 竜と契約をした時点で、その者には竜の炎への耐性が出来る。
 竜の炎は通常の炎とは違う。単に高温というだけではなく、そこには魔力が秘められている。並の人間ならば一瞬にして灰となるか、運良く免れてもじわじわと皮膚の下を焼き続ける熱に悶絶しながら、いずれ命を落とすことになるのだ。
 だが、竜の契約者となれば話は違ってくる。
 契約した竜の炎が相手の体を髪の毛一筋でも傷つけることはないし、契約相手ではない竜の炎でも、精々手酷い火傷を負うぐらいで死んだりすることはない。
 だから黒竜の炎をまともに受けたところで、カイムが死んでしまうことはないのだ。苦痛さえ耐え抜けば、数日で傷も火傷も再生する。
 紅竜には、分かっていたはずだった。

 体が動いたのは、おそらく無意識だ。
 足を引きずりながら、紅竜は凛と翼を開く。翼が折れていないことを僥倖のように思った。黒竜に背を晒し、剣を番えて向かってくる青年の行く手を全身で塞ぐ。
 ――命を共有する契約者だから庇おう、と、思った訳ですらなかった。そもそも契約者だと冷静に考える頭があったなら、青年が死ぬわけがないことにも気付けた筈なのだ。
『カイム!』
 来てはいけない。
 彼女は、深紅の翼を精一杯開げた。名を呼ぶ叫びは必死で、まるで悲鳴のようだった。背後の黒竜が炎を吐いたのが分かる。闇の魔力を秘めた炎塊が、予想したよりも遙かに大きい。
 紅竜は青年を翼で覆うように囲った。
 ほぼ同時に灼熱の激痛が彼女の背を焼き、目の前が鮮やかな緋色に染まる。瞼の裏が白熱し、光が散った。
 衝撃に、紅竜の喉から堪えきれない悲鳴が迸った。深手を負っていた喉から血が溢れ散る。背の鱗が嫌な音とともに砕け、魔炎が肉に食い込んだ。
 彼女は想像を絶する激痛にのたうった。
 ――炎の主はただの黒竜ではない。自分と同じく契約を済ませ、強大な魔力を身につけた竜なのだ。
 紅竜は、崩落していく尖塔のようにゆっくりと頽れた。庇いこんだ青年を潰してしまうことを怖れ、懸命に己の足を支えようとするが、限界だった。
 苦痛を制御できない。――これ以上、自分だけで引き受けていられない。痛みに屈しようとしている己が情けなく悔しく、喘ぎながら紅竜はやっとの思いで琥珀を開けた。
 目に映ったのは、見詰めてくる青年の蒼い視線だ。茫然としている。彼の瞳は驚いたように瞠られ、まるで起こった出来事を信じかねているかのように彼女を見ていた。
『……この、馬鹿者、が』
 紅竜は遠くなる意識を必死に引きずり起こしながら呻いた。
『しっかりせんか』
 しっかりする必要があるのは自分だと、紅竜は己に鞭を打つ。
 今、気を失っては駄目だ。この状態で意識を失えば、自分が負っている責め苦の半分は、契約通り青年に渡ってしまうだろう。それは、僅かな時間のことかもしれないが、その間、青年が満足に闘えなくなってしまう。
 闘いは終わっていない。
 だが心身を侵す拷問のような酷い痛みに、彼女の意識は途切れていく。戦いの場に青年をひとり残すことになるのかと、紅竜は初めて嘆いた。
 お前がいるのだから独りではないだろう、と言ったカイムの言葉が、紅竜の脳裏に過ぎる。

 ――意識が暗転する。
 彼女は小さく『すまぬ』と呟いた。





(10.11.29)


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