第六章-2 地下室はむっつ




 真っ黒な闇から意識が浮上したのは、喉に流れ込んでくる冷たいものが、紅竜の渇きを再認識させた為だ。
 紅竜は、満たされない感覚に瞼を震わせる。朧気な意識では、我が身に何が起こっているのか判断することが出来ない。
(暗い)
 それが目を閉じているせいだと気付くのに、何秒もかかる。だが気付いたところで、目を開けることは不可能だった。まるで、瞼に重い閂でも掛けられているかのようだ。
 ふと、咥内に冷たく柔らかいものが触れた。
 おかげで、紅竜は己の舌が腫れ上がり、恐ろしく熱を持っていることを知った。じくじくとした痛みを伴って喉を塞ぐ肉の塊。ともすれば自分の舌で気道を塞いでしまいそうな感覚に、うっすらと紅竜は自分の体の損傷の深さを思った。
(死にかけているのか。我は)
 ――そんなわけにはいかない。ぼんやりとした意識でそれだけを思う。
 死ぬわけにはいかないのだ。何故なら、×××であるから。
 途切れた思考に当てはまる言葉を思い出すことが出来なくて、竜は懊悩する。なんだったろう。酷く大切な事だった。
(おのれ、人間ども)
 我を捕らえ、あのような庭に打ち据え縫い止め、我の翼を――。
(……?)
 おかしい。そこからは逃げ出せたような記憶がある。
 何かを思いだしかけた時、紅竜の喉を再び冷たいものが流れ落ちた。
 やっとのことでそれを水だと認識し、竜は慎重に、だが夢中で嚥下する。噎せてしまえば、この弱った体では呼吸に差し支える。
 ああ、けれど。
(足りない)
 もっと、欲しかった。もっと。
 焼け付くように痛む喉に、その水は殊のほか凍みたが、構わない。もっと、たくさん欲しかった。
 本能的なその欲求を、やっとのことで理性が押し止める。上手く飲み込むことさえ出来ないこの有り様では、一息に水を口に含めば、それこそ危ない。この水を与えてくれている相手は、それを心得ているのだ。
(相手……? 誰、……だ?)
 分からない。頭の中には霞が掛かったようだった。
 濡れた冷たいものは何度も紅竜の舌に触れ、その度に水が与えられた。次第に、竜の渇きは満たされていく。この相手は、紅竜が水を嚥下するのを辛抱強く待ってから次を与える、という行為を繰り返しているのだった。
 やがて、少しずつ感覚を取り戻した竜が緩く身動ぐと、思念の声が『おい』と呼びかけてくる。
(誰だ)
 思念も、うまくまとまらない。目を開けたかったが、まだ開けることができない。瞼も腫れ上がっているのだ。
 数度、呼びかけられたが、喉の渇きが薄らいだ今、新たに紅竜を襲っているのは急激な寒気と眠気だ。気を抜くとすぐに意識が混濁していく。
『おい!』
 どこか必死な色のある呼びかけに、紅竜は意識の底で苦笑った。大袈裟な。死んだりはせんと言っておるのに、この――。
『……ッ』
 やおら、口に何かを噛まされた感覚を覚え、紅竜は翼を震わせた。
 いや、もしかしたらずっとそのようにして口をこじ開けられていたのかもしれない。今まで感覚が遠すぎて気付かなかったのだ。
 再度、柔らかい肉の感触が舌を這った。先程までより、ずっとはっきりその感覚が伝わる。何故か、脳裏を獣の仔同士がじゃれ合いながら互いの体を舐め合っている光景が過ぎった。
 喉の奥に流れ込んできたのは、ただの水ではない。強い、花の香りがした。
(甘い)
 香りも濃厚な甘味を含んでいたが、水そのものも飛びきり甘かった。
 芳醇な花の香りに酩酊しそうなその水は、紅竜にとって大層甘露だった。生き返るような心地と、癒されていく感覚に紅竜の喉が鳴る。水の時よりも切実に、体と心がそれを求めて疼いた。
 腫れた舌をもぞりと動かすと、触れている小さな肉が宥めるように紅竜の舌を舐めてくる。呼びかけていた声の主が微かな安堵を含んで笑った気配がし、竜の求めに応じるように、再び甘い水が紅竜の喉を潤した。
『気に入ったか』
 頭を持ち上げられているのだと気付いた。思念はよく覚えのある声で、紅竜はその主を確認しようと、苦労して薄く目を開ける。
『……おぬし』
 意外なほどの至近距離に己が契約者が居て、紅竜は鈍い驚きに翼で地を掻いた。薄蒼い青年の瞳が、彼女の琥珀の瞳を覗き込まんばかりの近さにある。
 だが、カイムの表情は、すぐ安堵から不機嫌そうなものに変わった。
『動けるか』
 怒っているようにさえ見える。声音は厳しく平坦だ。
『ここに居ては体に障る。が、俺ではお前を運べん。頼むからオアシスまで立ってくれ。それから……』
 ぐい、と頭を引き寄せられた。
『俺に痛みを寄越せ』
 きつい灰蒼の瞳が、紅竜をまっすぐ射抜いた。
 一瞬にして紅竜の頭の中の靄が晴れ、今まで起こった出来事がきちんと頭の中に収まる。
 気付れた、と、紅竜は観念して、そろそろと溜息を付いた。
 やはりあそこで意識を失ったのは不味かったのだ。抑制しきれなかった痛みは、容赦なく青年にのし掛かったことだろう。
 当然のことながら、青年は疑念を抱いたに違いない。どうして今までの戦いではそれほど痛みを感じなかったのか。契約者が一心同体だというのなら、苦痛も共有する筈だ。
 だが、これまでの戦いでも、紅竜が喉を噛み裂かれている時も、炎を受けた瞬間も、カイムにはそれほどの痛みはなかった。
 それなのに、紅竜が意識を失った瞬間から、青年の身に激痛が走ったのだ。満足に動くことも出来ないほど。今まで「そういうものか」と納得していた事実に、青年が疑問を持つのは当然だ。そして少し考えれば、答えはすぐそこにある。
 紅竜が、今まで「痛み」の殆どを引き受け抑制していたのだ。
 その事実を黙っていた彼女に、他意は無い。戦っている最中、契約者が痛みで動けなくなるようなことがあれば死んでしまう危険がある。その不利益は避けたい――切っ掛けは、そんな単純な理由だった。無論、痛みをまったく無くしてしまうのは、返って人間の命を危うくすると分かっていたから、全部を引き受けていたわけではない。
(そもそも竜のほうが苦痛には強い。治りも早い)
 だから別に構わないだろうと思っていた。
 だが、今、目の前の青年はどう見ても怒っている。紅竜は、己の契約者の矜持を傷つけてしまったかと若干後ろめたく思いながらも、(無茶ばかりするおぬしが悪いのではないか)と言い訳を思った。
『寄越せ。早く』
 無言の竜を急かすように、カイムは言った。その眉が顰められる。
『……まだ、はっきりしないか』
 それは独り言のようだった。青年の手が何やら瓶を寄せ、それを口にして呷る。甘い芳香が竜の鼻先を掠めた。
 何を、と思う間もなく、紅竜の頭が抱え寄せられる。
 口の端を、青年の指先が無遠慮にこじ開け、そのまま閉じられぬよう噛まされた。
『……ッ』
 仰天した彼女は、けれどどうしていいか分からない。侵入してきた青年の舌先が自分の舌に触れるのを感じて、酷い混乱に陥った。
 彼女が反射的に引いた舌を、青年のものが容赦なく追う。
 口を閉じてしまいそうになるが、青年の舌と指を牙で傷つけることを紅竜は怖れ、躊躇った。
 竜のものに比べて恐ろしく小さな柔らかい舌が、断固とした意思を持って紅竜の舌に押しつけられる。想像したことさえなかった感触に、彼女は眩暈を覚えた。
 その舌に刻まれているのは、己との契約の印だ。思い当たった瞬間、形容しがたい痺れるような感覚が背を這い、翼が震える。
 ――耐えられぬ。
 彼女は、きつく目を閉じた。
 そのまま、甘い水を流し込まれ――彼女は先程まで自分がどのようなやり方で水を飲まされていたのかを知った。
『……何、を』
 与えられたものを飲み下す痛みが熱い。
『目が覚めたか?』
 カイムは平然としたものだ。紅竜の口の端に噛ませていた指を外し、その指で自分の口元を拭う。
『エルダー酒は、俺には甘すぎるな』
 ぼそりと言い、舌で口の端を舐めた。
 何故かその光景を正視できず、紅竜は視線を逸らす。何を言えばいいのか、頭のなかは混乱の極みでうまく思考がまとまらない。
『気に入ったのなら後でいくらでもやるから、しっかり目を覚ましてくれ』
 黒髪の青年は落ち着いた声で、紅竜を説いた。
『こんな野晒しの場所では、傷に障る。近くのオアシスまで移動したい。だが、その体では思うように動けないだろうから、せめて痛みをこっちへ寄越せと言っているんだ』
 そこで若干、声が低くなる。
『取り敢えず、お前が今まで俺の分の痛みまで引き受けていたことはよく分かった。言い逃れは出来ないぞ』
 嘘のように、先程までの混乱が引き、心拍数が落ち着いていくのを紅竜は感じた。
『……そのようなつもりは無い』
 吐息をついて、琥珀を開ける。
 どうにか体を起こそうとすると、叫び声を上げそうな激痛に身を焼かれた。成る程、これでは満足に移動もままならない。
『……今は、きついぞ』
 なるべく息を落ち着けてから言う。確かにこの痛みを少しでも肩代わりして貰えるならば、動くことは可能だろう。が、例え十分の一でも、人間の身の青年が負う苦痛は大きいはずだ。
『構わん。早くしろ』
 あっさりとカイムが言う。
『後悔しても知らぬぞ』
 溜息をつきながら、紅竜は抑制していた痛みの絆をそろそろと繋いだ。
 ぐ、と微かにカイムが呻いたのが分かったが、青年はそれ以上声をあげようとはしない。歯を食いしばり、額に汗を滲ませ、前屈みに心臓を押さえながらも、ふらつかずに立ち上がる。
『……なるほどな。確かにきつい』
 低く、カイムの思念が笑った。生理的な水分に滲んだ薄青い瞳を紅竜に向け、動くように促す。
 紅竜もよろよろと身を起こして、喘ぎながら歩き出した。痛みは軽減されても、実際に肉体の損傷を受けているため動くのは難儀だ。背中の怪我のせいで翼でのバランスが取り難く、普段のようには歩けない。
 その竜の傍らへ添って、青年が行く。
 ふと、紅竜は多くの視線を感じた。彼女に首を巡らす余裕はなかったが、おそらく駐留軍の兵士達が遠巻きにこちらの様子を窺っているのだろう。
『……イウヴァルトはどうした』
 聞き難いことだったが、尋ねないわけにはいかない。カイムが無事であるということは、倒したか、去ったか――。
『フリアエを連れていった』
 カイムの応えは簡潔だった。
(去った、ということか)
 女神が浚われた。浚ったのはイウヴァルトだが、あの青年を操っているのは間違いなく帝国だろう。つまり、女神は帝国の手に落ちたのだ。イウヴァルトを寄越した目的は女神の拐かしか。
『……まだ、無事だな』
 紅竜は精一杯、感覚を研ぎ澄ませて確認する。
 柱の要である女神が倒れれば、おそらく世界に何らかの影響が出はじめる。その変容が神の僕たる竜族に知覚できぬはずはなかった。
 フリアエの無事をうけあった紅竜に、カイムは無言だった。噛みしめるように地を踏み、歩を進め、やがて低い声で言う。
『取り戻す』
 風が吹き抜けるような荒涼とした響きだった。押し黙った紅竜を青年は振り仰ぎ、気を取り直すように吐息をつく。
『だが、その前に傷を癒さなくてはな』
 その言葉には聞き慣れない柔らかさがあり、竜は僅かに鼻白んだ。
 一見、カイムのどこにも変わった様子はない。変化が生まれているとすれば、多分、彼の内側だ。何が起こっているのだろうと、紅竜はふと不安になった。
 何の脈絡もなく、あの不吉な文言を思い出す。

 ――天使の名を呼んではならない。

 もしかすると、変化が生まれているのは契約者の青年ではなく、自分のほうなのかもしれないと、紅竜は漠然と思った。





(10.11.30)


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