幕間 二




 オアシスでの数日間は、紅竜にとって、契約竜となってから過ごした最も穏やかな日々だった。
 ――そして最後の緩やかな時間だった。

 紅竜は、閉ざされた眠りの底で思い返す。

 あの時、穏やかだったのは表面上だけで、心中はずっと靄る何かを抱えていたのだ。
 カイムの態度は明らかに変化していた。
 取り立てて、どこがどうというわけではない。急に優しくなったわけでもなければ、人が変わったように笑顔を浮かべるようになったわけでもない。
 相変わらず淡々として、日常生活のなかでは抑揚と起伏に乏しい。戦場で高揚している時とのカイムとは別人だ。
 だが、その奥にある僅かな変化を、紅竜は感じ取っていた。変化の原因が掴めない彼女は、何となく落ち着かない。黒竜の炎から庇ったせいだろうか、とも思ったが、実のところ戦場で似たような場面は何度もあったから、それが原因とも言い切れなかった。

 あの時の自分には、何も分かっていなかったのだ――。

 白茶けた砂と砂礫の大地の、奥深くに眠っている水が湧き出す、自然からの恩恵がオアシスだ。その時、紅竜が回復のために翼を休めていたのも、そういった場所の一つだった。
 竜が入って充分あまるほどの広さの、満面の涌水を湛えた青い泉。その水の周囲に茂る草や木々が、適当な日除けを作っている。
 そこに紅竜は身を横たえた。火傷は酷く、青年が言うように強い太陽光に晒したままでは、治りが格段に遅くなってしまうことだろう。
 涼しい木陰と、柔らかい草の寝床に、紅竜は深い息を付いた。痛みが引いているうちに、水もたっぷりと飲むことが出来た。
『ここならば、数日のうちに傷も癒えよう』
 安堵に眠気を覚えながら竜は言った。こうなれば、早く傷を治すしかない。多分、カイムはすぐにでも出立したいだろう。妹を取り返すために。それでも、そういう焦りをおくびにも出さずに居てくれている。
 彼女は真面目に感謝した。
『眠るのか?』
 丸く踞り、頭を横たえた彼女に、青年の思念が届いた。随分、密やかな問いかけだった。まるで、庇護する相手に掛けるような声の調子に、紅竜はその時は何の違和感も感じずにいた。
『……眠るのが、一番回復には早い、のでな』
 辛うじて応え、紅竜は眠気を受け入れる。もう大丈夫。再び青年から痛みの殆どを引き取り繋がりを切ったが、もう耐えられる。あとは治すだけだ。自分のなかに痛みを抱え、抱き込んで治まるのを待つだけだ。
 おい、とカイムが何かを言いかけたが、素知らぬ振りをする。答えるよりも、眠りたかった。
『……まあ、いい。痛みがあっては、満足にお前の世話ができんからな』
 遠く聞こえた青年の思念が、現実だったかどうか紅竜は覚えていない。
 温かいものが自分の額に当てられた、その感覚も――。

(思えば、あれは夢ではなかったのだろう)
 紅竜は反芻する。何度もその温度を思い返し、思い返しては懐かしく愛おしむ。
 この冷たい封印の檻のなかで、唯一、青年との思い出だけが彼女を暖めてくれるのだ。

 カイムは、昼過ぎになるとオアシスにやって来て、紅竜の傍らで過ごした。
 剣の手入れをし、鍛錬をし、水を浴び、時には本を読むか寝るかして食事を摂り、夜をそこで眠って、夜明けと共に駐屯地へ出かけていく。そんな日々の繰り返しだった。
 駐屯地では何やら軍略会議を繰り返しているらしかったが、カイムは紅竜に何も言わない。紅竜のほうでも特に尋ねたりはしなかった。いずれにせよ、己の契約者とともに最前線で戦うだけのことだと思っていたからだ。
 駐屯地からオアシスへ帰ってくる度、黒髪の青年は必ず何か糧食を携えていた。大抵は、自分のためのパンや乾し肉と、紅竜のためらしい果物や甘味のある野菜だ。ナツメヤシや無花果、白瓜、サボテンの実、と言ったものと共に、エルダー酒も持ってくる。
『酒、と言っても、酒精分はない』
 カイムはそう言って、紅竜にそれを差し出した。
 エルダーという名の花を氷砂糖とビネガーに漬け込んだものだと言う。
『薬効が高いというんで、薬代わりにこういう兵舎には大抵置いてあってな。俺は好まないが、お前はきっと好きだろうと思った』
 確かに、強い花の香りは紅竜の好みだった。眠っていても、この香りがすると目が覚めてしまう。
 しかし、俺が飲ませてやろう、などと真顔で言われた紅竜は絶句した。どうしても脳裏から水を飲まされていた時の記憶が消えてくれない。
 何かの冗談かと硬直している彼女に、カイムはしれっとした顔で瓶の蓋を開けた。
『……お前、案外面白いな。そう反応されると色々期待したくなる』
『……何を言っておるのだ。この馬鹿者めが』
 からかわれたのだと我に返り、紅竜は脱力してぐったりと地に伸びた。あまりの事に、怒ることを忘れてしまっていた。
『瓶のままでは飲みにくかろうから、口元で瓶を傾けて支えておいてやると言ってるんだ。桶に汲めるほどの量もないしな』
 そう言って竜の鼻先で瓶を振り、黒髪の青年は――気のせいかどこか楽しげに、灰蒼の瞳を細めた。

 そんな風に近寄って来られることに、紅竜は慣れていなかった。
 カイムがあまりにも平然と振る舞うので、尚のこと戸惑いは深い。が、相手が平然としているだけに、勢い紅竜も平静を装うしかない。
 ある時、カイムが木桶に一杯の赤い果実を持ち込んできた。清涼感のある甘い香りでそれが林檎だと分かる。紅竜の好物だった。この辺りで林檎など見かけたことはないから、駐屯地の誰ぞに都合させたのかもしれない。
 黒髪の青年は特に何かをいうでもなく、いつものように踞っている紅竜の傍らに木桶を置き、そこへ腰を下ろすと、膝の上に広げた羊皮紙の地図と本を眺めながら黙々とナイフで林檎を切り取り始めた。
 どうもこの青年は動作にあまり迷いがないため、紅竜も声を掛ける機会を計りづらい。
 カイムは大きく切り取った林檎の果肉を、黙って紅竜に差し出した。ナイフを持つ手と逆の手で出してきたことだけは褒めてやろうかと、彼女は思う。この契約者ならナイフに突き刺して差し出すくらいのことをやりかねない。
(というか、これは食べろという意味か)
 面食らって、瑞々しい白い果肉を見詰めていると、カイムの薄蒼い瞳が怪訝そうに見てくる。まるで、紅竜が食べないこと自体が疑問であるかのような顔だったので、彼女は仕方なく口を開けた。
 林檎は水気をたっぷりと含んで美味だったが、かしゅりと食んだ紅竜を見て満足そうな顔をするカイムのほうが彼女には気になって、味など半分も分からなかった。
 青年は器用にナイフを使い、自分の分を切り取ると口に入れる。それきり、無言で地図と本へ目を戻した。
 けれど、林檎を切り取っては、交互に紅竜へ差し出すのと、自分の口へ運ぶのとを忘れない。
 ――別に、切り取らずともそのまま差し出されても一向に構わぬのだがな。
 とは、彼女は言わずに黙っていた。大人しく酔狂に付き合ってやるのもいいかと、差し出された小さな林檎の欠片を飲み込んでいた。

 幻想のように穏やかな時間だった。
 紅竜は思う。
 まるで予定調和のようなひとときだった、と。
 この時の数日間がなければ、あるいはもしかしたら、紅竜が己の心の内に気付くのはもっと遅かったかもしれない。
 この封印の檻に入ろうと思うことは無かったかも知れない。
 例えこの選択をしたとしても――想像を超える寒さと孤独に正気を保ったまま時を待つことなど、出来なかったかも知れない。
 今となってはどのような振り返りも詮無きことだったが、それでも紅竜は数日間の翠の時間を宝玉のように抱えて眠る。
 運命という名の神に仕組まれたことだったとしても構わなかった。
 ただ直向きに、その小さな記憶を卵のように抱いた。

 気付くことが出来なかった楽園としての時間は、紅竜の傷が完全に癒えるのと同時に終わりを迎えた。
 泉につかり、すっかり癒えた背を水に沈め、心地よさに吐息をついた日だ。
 乾いた大気と風は、水浴にはお誂え向きだ。水のなかで翼を広げ、ゆっくりと動かす。背も、翼も問題なく動く。痛みも無い。体内に満ちる魔力も申し分なく、充分に休んだおかげか以前よりずっと体調が良かった。水面に映る鱗が紅玉のようにちらちらと光り、彼女は満足して首を振った。
 これならば契約者を背に乗せて飛ぶのにも、全く差し支えはない。
 陽と水を跳ねるよう翼を開くと、飛沫が虹の色合いを作った。
 ふと、岸にくだんの契約者が佇んでいることに気付く。いつからいたのだろう。紅竜は幼子のような他愛のない戯れを見られた気がして、羞恥を覚えた。
 誤魔化す思念が、勢い素っ気ないものになる。
『……なんだ。居たのならばそう言わぬか。驚くだろう』
 カイムが笑った気配がした。蒼い瞳が細まる。
『良くなったようだな』
 青年の言葉に紅竜は翼をたたみ、胸を反らした。
『待たせたな。もうすっかり良い。いつでも出立できるぞ』
 そうか、と答える青年の思念は平坦だった。何かを言いかけ、やめる。ほんの僅か、気付かないほどの間の躊躇いだったが、カイムは確かに何かを言おうとしてやめた。
 そして別の言葉を継いだ。
『今夜にも出立したい。行けるか』
『無論だ』
 答えると、青年は頷いた。
『北の山岳を抜け、連合の本隊と合流。その後、帝国領土へ進攻する。おそらく境界にある丘陵地で帝国本隊が陣を敷いている。そこで決戦になるだろうな』
 決戦か、と紅竜は呟いた。どことなく腑に落ちない。この戦いは、そんな国同士の争いと言ったような常の戦争ですむものなのだろうか。
 図らずもヴェルドレの言ったとおり、帝国の目的が世界の理の改変と人の再生であるなら、事は地上で争う人間達の戦争で片の付く話ではない。
 まるで竜の心の内を読んだかのように、カイムは淡々と告げた。
『どのみち、現状は目の前の敵と戦うことしか選択肢がない。帝国の思惑など知ったことか、と思わなければ身動きが取れん』
『それも道理か。だが、フリアエはどうする?』
『俺達の役割は本隊と合流するまで、先行して帝国の連中を狩っておくこと。その後は、状況次第で別働、と話をつけてある。まあ、フリアエの居場所が分かるまでは、情報収集をかねて軍本隊と行動を共にすることになるだろう。あちらにはブラックドラゴンとその契約者がいる。あれに出てこられたら、俺達でなくては相手が出来ん。ただし如何なる場合でも、女神の奪還の任は、俺達にとって何よりも優先される』
 なるほど、と紅竜は頷いた。
『というわけで、駐留軍は今朝方、兵舎を引き払って出発した。同時に出ても、空を駆る俺達では先行しすぎるので、こちらの出立は夜でいい』
 カイムは言い、片手を掲げてみせる。その手にはすっかり見慣れた濃い緑色の瓶が何本か下げられていた。
『水から上がってこい。引き払うというので分けて貰ってきた。飲むだろう』
 何故、一々断定口調なのかと思いはしたが、紅竜は結局、素直に泉からあがったのだった。

 その懐かしい花の香りを思う。
 白い花に埋もれる夢を見たいと、切実に紅竜は思った。





(10.12.5)


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