第七章-1 鍵はななつ |
「カイム殿!」 非難の色を含むその声音は、底冷えのする周囲の山々に木霊し、まるで断罪の宣告のように響いた。 砂漠の地を離れた連合部隊は雪の舞う山岳地帯を行き、先程、別の部隊と合流したばかりだった。幾分開けた場所であったため、そのまま野営地はそこに決まる。 深い切り立った山々が聳えている、この辺りの日没は早い。季節を問わず雪がちらついているような場所であるため気温が下がるのも早く、平地のように夕暮れを待ってから野営を始めたのでは間に合わないのだ。 足場の悪さもあって進める距離は一日のうちで限られていたが、その代わり気流のお陰で上空からの敵襲を警戒する必要がない。また、山岳路もそう広くはないため、敵兵との戦闘も行いやすかった。条件は帝国側も同じだろうが、連合側には気流などものともしない、小回りの利くドラゴンとその契約者が居る。彼らが必ず先行し、行く手に居る帝国勢をすべて『片づけて』まわった。 今も又、一行の指揮権を持つ神官長ヴェルドレの要請に応じ、露払いを終えて紅竜達が野営地に帰投してきたところだった。 労いと情報収得のために集まってきた将達に、カイムならぬ紅竜が偵察と戦況の報告をしていると、いきなり青年を呼ぶ声が響いたのだった。 ただならぬ声音に、場が静まりかえる。 「カイム殿ッあなたという方は!」 振り向くと、がつがつとした足取りでこちらへ向かってくる見慣れぬ将官が居た。身に纏う厚手のマントを留める金具の紋章から、それなりに身分が高い者だと知れる。 だが、見覚えがないところをみると、おそらく合流したばかりの本隊の将官なのだろう。 呼ばれたカイムは淡々と灰蒼の瞳で、近づいてくる将官を見ていた。その頭が作法通りに下がる。動じた気配はない。が、心の内が微かに揺らいだのが、紅竜に伝わった。 (知人か) 鉄灰色の髪の先に雪の結晶を纏わせた頑健そうな将官とカイムとの間に、老将が慌てて割り込んだが、将官は乱暴にそれを振り払う。 男の背後には紅蓮の怒りが見えた。 「まさか、と思っておった。噂だけのことだろうと、私は信じなかった。まさか、貴公は本当にドラゴンに魂を売ったのか!」 (……ほ) 紅竜は少なからず驚いて琥珀を瞬いた。 (魂を売る、と来たか) なるほど、契約を交わすことの側面をうまく言い表していると、彼女は感心する。魂を売る、まさしくそんな印象がないでもない。 だが紅竜の心の余裕は男の次の言葉で砕かれた。 「正気か! あなたのお父上とお母上を惨殺し、国を滅ぼしたのはドラゴンではないか! お忘れかッ?」 『……な』 ――思わず、思念の声が零れた。慌てて心を閉ざす。動揺は彼女を鷲づかみ、鋭いかぎ爪を打ち込んだ。 正直、紅竜は何故、己がそんなに衝撃を受けているのかわからなかった。青年の国を滅ぼしたのは彼女ではない。分かりきっている事実であり、他の竜族の狼藉の責任まで取らねばならぬ謂われはない。 けれど、紅竜の胸には男の言葉が思わぬ深さで突き刺さった。 (カイムの国と両親は) 竜に滅ぼされたのか。それでは、襲われたことがある、どころの話ではない。 当のカイムはじっと黙ったままだった。将官は、苛立ちを募らせたかのようにまくし立てる。 「父君ガアプ殿がこれを見ていたら、なんとお嘆きになるか! あなたにとってドラゴンは敵ではなかったのか! 国民の女子どもまで惨たらしく食い殺されて、なお、あなたはそいつに魂を売るか! 盟邦だからこそ言わせて貰う。貴公、己の民に顔向けできるとお思いかッ? 恥を知りなされ!」 「止さぬか! それ以上の暴言は許さぬぞ、金獅のッ」 老将が顔を紅潮させ、男の胸ぐらを掴む。 「やかましい! 貴卿も同罪だ!」 将官はその手首を掴み、老将へも食って掛かった。 「何故……何故、こんな愚挙を止めなんだのだ、老卿!」 声に、どこか悲哀が混ざる。彼は悔しくてならないのだ。 「我が姉を食い殺したのは……」 「おぬしの姉君の仇はそのドラゴンではない! 落ち着け。そのドラゴンには幾度も窮地を救われておるのだぞ。無礼も大概にせよ!」 「うるさい! ドラゴンに良いも悪いもあるかッ」 紅竜が聞いていられたのはそこまでだった。 『この場に我が居らぬほうが良さそうだ。しばらく離れる』 努めて平静に聞こえるよう、青年に告げた。同時に、人間達を刺激しないよう静かに下がると、ゆるりと羽ばたいて場を離れた。 『おい』 カイムが何かを言いかけたが、紅竜は取り合わなかった。 鼓動が、らしくもなく波打っている。彼女は、一体己が何故こんなに動揺しているのか理解できなかったが、とにかく居たたまれない気分だった。 無礼者、と憤っても良かったのだ。それか、くだらぬと嘲笑しても良かった。以前の紅竜ならば、我とは関係ないと傲然と切って捨てていた筈だ。 けれど、今の紅竜にはどちらも出来なかった。 あの将官に悪し様に言われたことは、気にならなかった。紅竜の胸につかえているのは、カイムの両親と国を滅ぼしたのが竜であるというその事実だけだ。庇ってくれた老将自身が以前零した、悲嘆と憤怒に満ちた言葉が記憶に蘇って反響した。 初めて見えた時の、青年の憎悪に満ちた眼差しを思い出す。 (なるほど。……仇、か) さもありなん、と紅竜は苦く笑った。こういう時に、そんな表情ばかり思い出してしまうのは何故だろう。もっと柔らかい表情を向けられたことも確かにあった筈なのに、真っ黒く塗りつぶされたように思い出すことが出来ない。 紅竜は身を震わせた。 改めて外気温を意識し、やれやれと吐息をつく。野営地の一番端から、もう少し離れた所に適当な岩陰を見つけ、踞る。 ちらちらと降る雪が本降りにならないことを願った。暑さと同様、寒さにも強い竜族だが、紅竜は少しばかり寒いほうが苦手だった。特に、こんな夜は流石の紅竜でも少しばかり雪の冷たさが身に凍みる。 なるべく足の先を翼の下へと入れこみ、小さく丸くなった。 さっさと眠ってしまおうと目を閉じる。明日もどうせ、戦いの連続だ。 『おい』 うとうとしかけた所へ、黒髪の青年の思念が呼びかけた。 てっきり仲間の天幕あたりから声だけ飛ばしているのかと思いきや、目を開けない紅竜の頬のあたりを軽く叩かれ、彼女は驚いて顔をあげた。 目の前にカイムがいる。 『何だ。何をしに来た』 意外さから、幾分突っ慳貪な返事をすると、青年は眉を顰めた。 『何だとは随分な言い種だ』 カイムは脇に毛布らしき布を丸めたものを抱え、手に大ぶりの蓋付き陶器杯を二つ持っている。足元に毛布の包みを下ろすと剣の鞘も置き、それから陶器の杯をひとつ地面へ下ろして、手に持ったほうの蓋をあける。 いつにも増して強い香りがした。すっかり馴染みになった花の匂いだ。 『エルダーと果実と酒を混ぜて温めたものだ。少し癖があるが、体は温まる』 紅竜はなんともいえない思いに琥珀の目を瞬き、陶器杯と青年とを見比べる。どういうつもりだろう。いや、これが食事代わりだろうとは分かるし、それは有り難かったが――先程の一幕はどうなったのか。 だが聞くに聞けない。 『飲まないのか』 『……』 体の欲求とは裏腹に、心はそれほど目の前の飲み物に惹かれなかった。胸がつかえるような心持ちがとれない。それでも意地を張るのはいかにも未熟な反応である気がして、紅竜は大人しく口を開けた。 喉を焼く酒精が身に染みて、改めて自分が随分冷えていたことに気付く。果実と香辛料の混じった香りは竜にとって風変わりなものだったが、味は気に入った。人間達の持つ、食料を加工するという技術もなかなか大したものだと思う。 飲み干した紅竜が息を付くと、カイムは満足したように彼女の傍に腰を下ろし、毛布にくるまってぼそぼそと硬そうな黒パンを囓りながら自分の分を飲み始めた。 そのまま、沈黙が暫く続いた。 紅竜は何を言えばよいのか分からなかったし、青年も何も言おうとしない。 『雪が本降りにならぬうちに、天幕へ行け』 やがて、紅竜がそう口にする。青年は振り仰ぎさえしなかった。食べ終えたパンのくずを払い、杯の中身を飲んでしまうと、毛布を掻き寄せる。 カイムから届いた思念はまったく別の話題だった。 『明日は夜が明けたら、西側の谷の偵察に行く。亜人の集落があるらしいから、帝国の手に落ちていないかどうか見ておきたい』 『心得た。だからもう戻れ』 そこで初めて、青年の蒼い瞳がまっすぐ竜を仰いだ。強い視線にたじろいで口を噤んだ紅竜に、カイムは立ち上がり――そのまま、掌を彼女の首に当てた。 『……』 何が起きているのか、何をされたのか、紅竜には一瞬分からず茫然とする。 それが、撫でられているのだと気付いた時、 『……ッ な、な、何を』 動揺のあまり、身動いだ。首を僅かに背けても、青年の手が追ってくる。 『おぬしは、何をしているのだ!』 『寒そうだから暖めてやろうかと』 黒髪の青年は相変わらず飄然としたものだ。何が悪い、と言わんばかりの様子に、紅竜は返す言葉を失う。 ――確かに、青年の掌は温かかった。先程の杯ででも温めていたのだろうか。 (だが、そういう問題ではない) 恥ずかしいと、意味もなくそう思った。 『……離せ。我らはそれほど寒さに弱くはない』 『そうか』 だが、青年の手は離れようとはしなかった。 再び沈黙が落ちる。撫でられていると、どうしてか魂が痛んだ。 ――人ならば、泣けるだろうか。 『もういい。戻るが良い』 ややあって紅竜が告げると、青年は『何故』と返す。 藍色の夜闇に沈もうとしている雪原のなかで、契約者の灰蒼の瞳はかえって明るく映った。 『……おぬしの両親はドラゴンに殺されたのだろう。我は敵のようなものではないのか』 言葉は、思うよりずっと滑らかに竜のなかで形になった。 それを聞きながら、青年はじっと竜の琥珀を見詰め返し、 『なるほど』 思念で呟くと、紅竜の首を一撫でする。それから、あろうことか、踞った竜の翼の下へさっさと潜り込もうとし始めた。 度肝を抜かれた紅竜だったが、何をする馬鹿者と怒る気力も失せ、彼女は呆れかえって青年のすることを見ていた。 『おぬし、とうとう狂ったのか? いやもとから少し狂うておるとは思っていたが。我の話を聞いておったか?』 毛布をしっかりと体に巻き付け紅竜の体の間に勝手に腰を落ち着けると、『聞いていた』と、青年はどうでも良さそうに答える。 それから紅竜の腹に凭れて、雪の夜の向こうへ視線を投げた。 『だが、最初の日は別として、俺はお前を敵だと思ったことなどない』 声は淡々と、けれどきっぱりと迷いがなかった。紅竜はひどく思いがけぬ言葉を聞いたような気がして、押し黙る。 カイムは毛布の影からちらと竜に視線を送り、再び雪景色へ戻した。 『何だ。分かっていなかったのか』 『……何故』 『何故、だと?』 思わず零れた紅竜の呟きを青年が拾う。 『おかしなことを言う。俺の敵は帝国とそれに組みする者どもだ。お前ではない。大体、人も色々、ドラゴンも色々だと言ったのはお前だ』 それはその通りだが、と紅竜は言い淀む。 『それに』 カイムは何事か言いかけ、ふと口を閉ざした。 いつまでたっても続きを話そうとしないので、とうとう焦れた紅竜が言葉を思念にする。 『言いかけたことをやめるでない。何だ?』 いや、と青年の思念が呟いた。雪景色を見詰めたままの横顔は見えにくかったが、口元が微かに綻んだ気配がある。 やがて、青年は独り言のように言った。 ――お前を敵だと思い続けるには、無理がある。 紅竜がその言葉の意味を知ったのは、全てが終わった後のことだった。 |
(10.12.7/11.2.21)
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