第七章-2 鍵はななつ




 決戦は、ごく平凡な戦の様相から始まった。
 青々とした草原の広がる丘陵地帯に、陽の光を跳ねる銀の鎧の軍勢が整然と広がり覆い尽くす有り様は、確かに見事だった。色とりどりの国の旗が風に靡き、馬の嘶きと兵士達の鞘が触れあう音が丘の上を駆ける。
 それが戦争という殺伐たる背景を持っていたのだとしても、勇壮な光景には何か血を滾らせ高揚させる効果があった。
 草原に満ちているのは、名状しがたい緊張感だ。
 これから命のやり取りをするのだという現実感のすぐ傍らに、一時の夢を見ているような非現実感が隣り合わせる。浮き立つような痺れの正体は、死という未知のものへの恐怖だった。
 汗ばむ兵士達の鎧の隙間を風が抜けていく。空の高みでは大きな鳥が弧を描いて長閑に啼いた。
 ひどくゆっくりとした間ののち、高々と掲げられた一振りの剣が煌めきながら振り下ろされ――静寂が割ける。
 一斉に上がった鬨の声が、荒れる海のうねりのように草原をどよめかせた。人馬が一体となって丘を駆け、互いに互いの敵を求めて激しくぶつかり合う。
 草原が緋色に染まる。
 帝国と、連合。両者の兵力はほぼ互角だった。
 雪の山岳地帯から合流するはずだった亜人たちの帝国軍勢を、ほぼカイムと紅竜で殲滅してしまったのだから無理もない。大がかりな設置兵器も破壊し尽くしてきた。
 連合軍は意気軒昂だ。
 ――こちらには闘紳がついている。
 帝国兵士と違い、人間としての怖れや感情を抱えたまま戦に望んだ連合兵士だからこそ持ち得る、強固な勝利への信念だった。
 我々が負けることはない。何故なら、「カイム様」がついていてくださるのだから。その背に美しい竜を従えた(人間達の勝手な解釈だ)、神のごとく強い亡国の王子。
 紅竜は兵達が囁き合うのを聞いて呆れ笑ったが、よく考えれば敗色の濃かった戦の中で、カイムの存在は志気を高めるのには真に丁度良い、あるいは縋りたい相手として打ってつけの存在だったと言える。
 件の老将は『若様』の評価に誇らしげに胸を張ったものだが、当の青年は肩を竦めたきり、『虚像が役に立つなら好きにすればいい。利用されてやるのも務めだ』と、どうでもいいことのようにあっさり流した。
 今や、カイムの存在は、連合の一般兵士にとって英雄と同義だった。将官との一幕など何の疵にもならない。戦場においては圧倒的な力を持つ味方こそが英雄となるのだ。
 その効果が最も発揮されたのは、丘陵地帯の向こうから帝国勢が投入してきた人造兵器が姿を現した時だった。
 雲を突くばかりに巨大な一つ目の巨人。しかも一体ではなかった。醜悪な姿は本来のものではない。悪趣味な拘束具で首や腕を固定された哀れな様子には、理に逆らって現世に生み出された被虐の匂いがする。よろよろと立ち上がり、草原の連合軍に向かって歩を進めようとしていた。
「サイクロプス……!」
 上空でカイムと共に空中兵器や魔族の相手をしていた紅竜は、さすがに驚いて声をあげた。
「そうか。気脈筋に奇妙なものを作り何やら謀をしておると思ったが、こいつらを……!」
 大がかりな魔導の技を行使するには、いくつもの仕掛けがいる。
「こんなものを人工的に繁殖させるなど、正気の沙汰とは思えぬ」
 呻くように紅竜が言った。カイムは無言で、丘陵地帯の自軍の様子を観察している。
 浮き足立つ連合兵士達の恐慌が、上空からだと手に取るように判った。
『連中の相手をする前に、付き合ってくれ』
 カイムの落ち着いた思念が紅竜に届いた。彼女はその意図をすぐに飲み込む。幾度も繰り返された闘いの中で、そろそろ己の契約者の戦のやり方に通じてきた。
 紅竜は空から見下ろし、もっとも視覚効果の期待できる高台へと降りた。こちらへ向かってくる不気味な白い巨人と、及び腰になっている連合勢との間に割ってはいるような恰好だ。
 兵士たちはすぐにカイムと紅竜の姿に気づき、ざわつきながらも逃げだそうとする足を止めた。
 青年は充分な間を置き、ゆっくりと連合兵士達を見回してからおもむろに剣を掲げ、笑みを浮かべる。
「進め!」
 遠雷のように告げたのは紅竜だ。精々、勇猛無比に見えるよう、風音を立てて大きく翼を開く。
 うわあっ、と悲鳴のようにあがった歓呼の声に応え、再び紅竜は青年を背に乗せて舞い上がると、紅い軌跡を引いて真っ直ぐに巨人めがけて飛んだ。
「カイム様が、化け物との戦いに向かわれたぞ!」
「カイム様は最前線で戦っておられるのだ!」
「遅れを取るな! 進め、進めぇッ!」
「連合の意地を見せろ! 帝国を倒せ!」
 期を逃さず、将官達が兵士を鼓舞する怒鳴り声が風にのって届いた。
 黒髪の青年は、単独で前線に斬り込んでいる時はただの狂戦士だが、背後に自軍が控えている時は割合に策謀家だ。冷徹で自分を利用することにも衒いがない。
「連合万歳! カイム様に続け!」
「怯むな! 連合に勝利を!」
「勝利を!」
 唱和する高らかな声は草原を走り抜け、次々に伝播していく。くじけそうだった兵士達は、みな剣を握り直し、雄叫びを上げて再び死線へと突っ込んで行った。
『……罪深いことだな』
 戦況があっという間に覆されていく有り様を眼下に見下ろし、紅竜は吐息をついた。
『今更だ。それよりこっちの心配をしろ。来るぞ!』
 心配など要るものか、と紅竜は高まる魔力を翼に溜めた。
「うぬらの相手は我らだ、ひとつめのウスノロめ。貴様の目など我が炎で焼き焦がしてやろうぞ!」
 立て続けに火球を吐き、旋回し、風を斬る。巨人の魔力は強大だったが、無理矢理に生み出された副作用か動きが緩慢だったため、速さで遙かに勝る紅竜と、躊躇いもせず巨人の拘束具の上に飛び降りては攻撃を仕掛けるカイムの前に、呆気ないほど簡単に倒れていった。
 どう贔屓目に見ても連合の勝利が見えてきた頃――それは来た。

 雲が割れた。その彼方の空も割れた、かのように見えた。
 世界は白熱した光に満たされ、一瞬、空白に包まれたのだ。
 帝国兵たちの「裁きがきた」という不気味な呟きを聞いた者もいたが、疑念に思う暇はなかった。
 次の瞬間、光の生んだ静寂を劈いて、鼓膜が破れるような轟音が地を揺るがせた。続いて熱波と爆風が襲ってくる。
 それは地面を抉る勢いと速度でもって、丘陵地帯を一気に舐め尽くした。
 戦場は酸鼻を極める地獄絵図へと変わる。
 もはや連合も帝国もない。光雷の落ちた近くの兵士達は一瞬にして蒸発し、少し離れた場所に居た者は原型さえ留めぬ欠片となった。
 幾度となく強大な熱波が地上を焼き、大地を抉り大穴を開けた。空は赤と黒の混じった混沌の色に染まり、巻き上げられた粉塵と胸の悪くなるような灰が空と地の間を濃密に埋め、呼吸を塞いだ。
 何が起こったか分からぬうちに逝けた者は幸いだ。生き残ってしまった者達は、苦悶と呪詛と発狂した叫び声で地を満たした。
 紅竜とカイムは殆ど無傷だったが、それは彼らが契約者であったのみならず、偶然にも天から降った雷のようなものの直撃を免れることができた幸運に他ならない。何が起こったのか分からず混乱しているのは他の者達と同様だ。
「何という、ことだ」
 惨憺たる有り様に、さしもの紅竜が苦吟するよう項垂れた。
 これは命そのものを冒涜するような、ただの虐殺だ。道理を理解していない幼な子が、無垢な笑顔のまま小さい生き物の首をねじ切るような、そんな薄気味の悪い無邪気さがあった。
 カイムは紅竜の背から降り、赤黒く焼け焦げたもので覆われた地をくまなく駆けたが、無事な者の姿は殆ど見あたらない。
『カイムよ』
 ヴェルドレの弱い思念が届き、紅竜とカイムははっとする。辿っていくと、本陣が敷かれていたらしき場所に横たわる、老神官長の姿があった。その辺りは直撃こそ免れたものの、やはり惨たらしい有り様で、生き残った兵士たちも殆ど襤褸布のような状態だった。
 神官長は数人の兵士たちの亡骸の下敷きになっていたが、契約者らしく火傷は負っていたものの軽傷のようだ。
「無事であったか」
 紅竜が安堵の吐息をつくと、ヴェルドレが地面に横たわったまま腕を伸ばす。その腕をカイムが取って支えた。
『喉を、少しやられたようです』
 ヴェルドレが思念で言う。紅竜も思念で答えた。
『無理をするな。一体、これは……』
『私にも、何が何やら。……しかしおそらく、この惨劇を呼んだのは例の空中要塞とやらでありましょう』
 神官長は喉を押さえながら眉を顰めた。
 空中要塞、と紅竜が呟く。黒髪の青年と視線を交わした。
 雪原の谷間にあった集落での戦闘のおり、死にかけた亜人の軍勢の兵士からそのような情報を読みとった記憶が、紅竜にはある。無論その時の情報は神官長以下、他の連合上層部に伝えてある。だが紅竜も含め、誰もが話半分の眉唾ものにしか思っていなかった。
 大袈裟すぎる。精々、浮遊戦艦の大型のものではないのかという意見の者が大半だった。いくらなんでも、空中要塞だなどと、人の技の域を凌駕しすぎている。それではまるで古代兵器の再生そのものではないか。
 もとより空中兵器には武器弾薬や搭載できる武装に限界がある。物理的な重量制限に引っかかってしまうのだ。あまりに大きな攻撃力を持つ武装をしたのでは、空に浮くことさえ出来なくなってしまう。
 現時点において人間達の持てる技術では要塞級のものを空に浮かべることなど、魔導の力を総動員しても不可能だと、竜は知っている。
 しかし、彼らはサイクロプスさえ兵器として蘇らせていたのだ。遅きに過ぎたが、今ならばあるいはと思うことも出来る。
 紅竜は唸った。
『つまり、その空中要塞からの攻撃、というわけか』
『分かりません。ただ、おそらく女神はそこかと』
 黒髪の青年の表情が変わった。
『どういうことだ』
『私は女神の囚われている場所を探っていたのです。帝国兵たちの思念の断片を拾い、手かがりはないかと、ずっと。恐ろしいほどの空白と虚無ばかりに行き当たりましたが、あの雷と熱の矢が地上に落ちる寸前、帝国兵たちが空を仰いだのです。その瞬間、女神、という存在と空の城のようなものを心に思い浮かべたものが何人か居ました。きっと、女神はそこです』
 ヴェルドレの枯れ木のような腕が、支えているカイムの腕を恐ろしく強い力で掴んだ。
『もう私では女神を追えん。カイム。海の神殿が落ちた今、これが武力による攻撃だとは言い切れん。最終封印が解かれる予兆かも知れんのだ』
 行ってくれ、と神官長は苦渋の表情で咳き込んだ。
『女神を救い出してくれ。なんとしても、封印を解かせてはならん!』
 カイム、と紅竜が声を掛けた。青年はぼそりと答える。
『行こう』
 それきり竜のこともヴェルドレのことも振り返らず、カイムは剣を鞘に収めて歩き出した。足元が悪く、歩きにくい。その原因を極力考えないように、紅竜は前だけを見て続く。
 黒髪の青年は凝った心を閉ざしたまま、踏みしめるように戦場を突っ切って行った。最早まともに動いているものは居ない。殆どの人間は地に伏せ変わり果てた骸となっており、動いている者はただ目的もなく辺りをのろのろと彷徨っている。
 聞くに堪えない、這いずるような苦悶の声が満たす地を、強い目で見据えながらカイムはひたすら歩く。彼は一度たりとも周囲の光景から目を背けようとはしなかった。
 背へ乗れと――どうしてか紅竜は声をかけられずにいた。どこまで歩く気だ、とも。
 いい加減にせよと窘めた方がいいのかと思い始めた頃、ふと紅竜は己の思念に覚えのある気配が触れるのを感じた。
 弱々しく途切れそうな、だが微かにカイムを呼んでいる『声』だ。
『カイム』
 呼び止めると、声音に何か気付いたのか、青年が弾かれたように竜を振り返った。どこだ、と、思念の形さえ成さない焦ったような彼の声が紅竜のなかに響く。青年が探していたものを、その時彼女はやっと悟った。
 声の主はすぐに見つかった。思念さえ捉えることが出来れば、辿るのは易い。赤黒い泥に半ば埋もれるようにして倒れていたのは、あの老将だった。
 紅竜が見守る前で、カイムが跪いて老人を覗き込む。抱え起こすことなど到底出来そうになかった。そんなことをすれば、老人の体は腹の辺りから千切れてしまうことだろう。
(もはや助からぬ)
 じっと紅竜は俯く。
 カイムも分かっているのだろう。せいせいとした息に血の音が混じる、その老将の顔を覗き込み、頬の血を拭った。
「カイム、さま」
 老将の、残ったほうの片目は虚ろで、青年が映っているとは思えない。だが、彼はちゃんと青年を見分けた。
「坊ちゃん」
 声に安堵と笑みが混ざった。
「ご無事、で」
 カイムが手を握ると、力無く握り返し、彼は言った。
「お許しを。……もう、お供すること、は、かないませぬ」
 彼の喉を支えているのは強固な意思のみ。――末期の力だった。
「私、の、剣を。お取り下さい。先代から、あなたのお父上から、この老骨めが賜った、王家の宝刀の、ひとつです」
 どうか仇を、と老将は呟いた。仇を討ってくだされ。私の、お父上のお母上のお国のすべての。仇を。
 呪詛に近いその言葉を、青年は黙って聞いていた。
「後をお願い、します。……坊ちゃん」
 彼は最期に「立派になられましたな」と、まるで平穏な屋敷の庭先で老爺が孫に目を細めるかのような深い溜息を零し、そのまま二度と息を吸うことはなかった。
 黒髪の青年は老将の瞼を閉ざし、ほんの僅か祈るように瞬きをして血に汚れた剣を取る。
 ――皮肉なものだと紅竜は思った。そして哀れだとも。
 老人の、カイムへの忠誠と愛情に偽りはない。それは痛いほどに分かっている。
(だが立派とはどういう意味か。立派な……殺戮者か。復讐者か)
 それをぶつければ、老人はきっと心外だと立腹したかもしれない。だが、当の黒髪の契約者は己の姿を正確に鏡に映している。
 老将の言葉は、カイムの心にどう響いただろう。
 仇を討ってくれと今際の際に遺した老人を、紅竜は何故か少しだけ恨めしく思った。


 空中要塞へはすぐに辿り着いた。
 普段あまり生き物が飛ばぬような遙か上空に、馬鹿馬鹿しいほど巨大なものが浮いていたのだ。気付かなかったのは高度のせいだったのだろう。
 ――巨大な「もの」、としか表現しようがない外観だった。もう少し城塞じみた、というか、建造物らしいものを想像していたのだが、現れたのはどこが入り口やらもわからぬような怪異な物体だ。
『人の発想とは思えぬ』
 目にした折り、思わず紅竜はそう呟いた。人間の技とも思えないが、そもそも人間の作り出す形とも馴染まない。まさに、これは「何」なのだろうと首を捻るようなものだった。
 青年の口数は少ない。妹の身を案じているのだろう。
 感覚を研ぎ澄ませると、女神の弱い思念が紅竜には届く。間違いなくこの要塞に囚われて居るようだ。
『聞こえるか』
 尋ねた紅竜に、青年は『いいや』と呟いた。
 繋がりの強い兄妹であるのに、カイムにフリアエの思念が聞こえないことを、紅竜は不思議に思う。それとも、紅竜に聞こえることのほうが特別なのだろうか。もしかすると、妹は己の心がすべて兄に届いてしまうことを怖れているのかもしれない。
 だが、声はずっとカイムを呼んでいるのだ。救いを求めるように。愛を告げ、請うように。
(それが届くのは、ドラゴンである我のみか)
『では、妹の居場所まで我が導こう』
 要塞内部は竜には狭すぎて入れないが、外で待機しながら女神の思念を聞き取り、何処に囚われているのか誘導することは出来る。このような得体の知れぬ未知の場所に青年一人を行かせることが気懸かりで仕方がなかったが、そうするしかない。
『死ぬでないぞ』と紅竜が告げると、カイムは彼女の琥珀を見た。それをずいぶん久しぶりのことのように思う。灰蒼の奥が微かに緩んだように思えるのは、彼女の願望だろうか。それでも黒髪の青年はひとつ頷き、剣を握りしめて要塞の奥へと駆け込んでいった。


 要塞内でどんなことがあったのか、紅竜には知る由もない。
 ただ分かっているのは、女神である、契約者の妹が死んだこと――それだけだ。
 悲運な娘の、哀しい最期の『声』は竜にも届いた。正確には、その直前の錯乱し壊れていく娘の、譫言のような『声』もすべて。

 ――兄さん兄さんお願い助けてここから救ってこわいこわい痛いこわいこわい痛いこわい私は自分がこわい世界がこわい痛いのがこわい嫌いきらいみんな嫌いここも嫌い世界も嫌い神も嫌い何よりも自分が大嫌いきらいイタイきらい壊れてしまえばいいのに私だけねえなんで私なの私だけなのいやよもういやなの痛い苦しい助けて兄さんもういいよねやめてもいいよね私がんばったよねもう限界なのイタイ痛い兄さんお願い救って私を助けてこわい愛してよ愛してよ痛い愛してよ愛してるんでしょうお願いもう私は壊れる壊れるこわい壊れるのはいや壊れたいの兄さん愛してるの兄さん救って解放して私を愛して兄さん兄さん兄さんにいさん。
 私を、抱いて。抱 いて。
 愛 し てる。

 紅竜には、娘が壊れていく様が手に取るように判った。
 早く早くと青年を急かしながら、同時に、どうかこの声を聞いてやるなと思う。これを聞かれるのは、おそらく彼女にとって何よりも苦痛であるに違いない。彼女の願望の奥底にあるものを、初めて覗いたような心持ちがして居たたまれない。
 フリアエの愛、フリアエの願い。
 おそらく、彼女は最愛の兄の手で女神の任から解放されたかったのだ。紅竜はそんな風に思った。ただひたすら兄への愛で女神の責務と苦痛に耐えてきた娘は、同時に心の奥底で、兄からの愛に依って女神から失墜することを願った。イウヴァルトにも愛情を抱きながら兄の腕を求めたのは、どこかでイウヴァルトには救って貰えないことを悟っていたからかもしれない。真っ向から世界を捨てて一人の女の愛を奪う覇気は、イウヴァルトには無い。
 フリアエが抱いた「愛」が己の那辺に由来するものか、一番それを怖れ見たくなかったのは多分彼女自身だったのではないだろうか。
「私を、見ないで」
 それがフリアエの最期の言葉だった。
 同時に、カイムの真っ黒な絶望の叫びが紅竜を貫いた。そのあまりの強さに、一瞬、紅竜の身が竦む。
 だが、己に鞭を打って紅竜はカイムに呼びかけた。
『しっかりしてくれ!』
 女神は死んだ。
 ――世界の理が歪み、人にとっての終焉が始まる。
 今ならば、竜には分かる。記憶の泉が告げていた。この終焉とは、人間にとっての終焉なのだ。世界は改変され、人間はこの世界から駆逐されることになる。神の残酷な法に依って。
 だからこそ、竜である彼女は己の契約者へと叫んだ。
『聞こえているのか、カイム!』
 彼女は初めて祈った。慰めも励ましも意味を成さないことは分かっている。紅竜は青年がこのまま要塞の奥から戻らないのではないかという怖れに身を震わせた。
 直後に響いたヴェルドレからの救援を求める悲鳴に、紅竜はこれ幸いと青年を叱咤した。
 先程の戦場跡におぞましい屍兵が次々と現れたのだと、ヴェルドレは告げてきた。もはや帝国も連合も関係なく、生き残った僅かな兵士達を惨殺して回り、さながら地獄のような有り様だと。
『封印は解かれた。この世の終わりだ! 我々はお終いなのだ!』
 惑乱のあまり狂ったように叫ぶ老神官長を、紅竜は『黙れ!』と一喝した。そして青年に呼びかける。
『カイム、戻れ! 最終封印が解かれた影響が出始めておる! このままでは再生の卵が産まれる。どんなことになるのか想像もつかぬようなことが起きようとしておるのだぞ!』
 世の終わりに天から生まれると言われている「再生の卵」が、どんな意味を持つのかまでは、紅竜にも知らされていない。だが、不吉なものであることは間違いが無く、人間達が幻想を抱いているような代物ではない。おそらくそれは人間達の首を落とす、最後の一太刀となるのだろう。
 青年からの返答がないことに、紅竜はじりじりとする。己がひどく手前勝手で冷酷な生き物に思えて我が身を恥じたが、それよりもずっと激しい焦燥が彼女を動かした。頼むから戻ってきてくれと心から願う。
『カーイム!』
 取り戻そうと必死だった。
 だが、何を何から取り戻そうとしているのか彼女には分からない。
 紅竜はそこへ入ることの出来ない自分の大きさを、初めて恨めしく思った。せめて人と同じ大きさならば追えたろうか。これまで、人間と同じような大きさ同じような体を持つことなど想像の範疇外であったのに、紅竜は扉を潜ることのできないもどかしさに懊悩した。
 城塞内の青年に何があったのかわからない。知ることができないことは不安だった。青年がどんな表情をしているのか見ることが叶わない。思念は閉ざされて、氷のように冷え切っている。
『早く外に出てこい! このままでは世界が終わる。おぬしの妹が耐えてずっと守ってきたことが、すべて無駄になるのだぞ!』
 それはもう懇願だった。妹を引き合いに出すのは卑怯だと己のどこかが糾弾するが、形振り構っていられなかった。
 祈るように紅竜は思念を送り続ける。
 やがて『今、戻る』という青年の思念が届いた時、紅竜の全身を安堵が襲った。
 扉の前でただひたすら待つ時間は途方もなく長く感じられたが、己の契約者が姿を現した時、彼女はどれほど自分が彼の姿を待ち望んでいたのか思い知らされることになる。
 その思いは痛みと共に、竜の魂に深く刻まれたのだった。





(10.12.12/11.2.22)


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