第七章-3 鍵はななつ




 白い砂漠は、美しい狂女を思わせる艶やかな色に暮れつつある。
 さらさらとした白い砂丘の続く大地が急に途切れ、海へと深く落ちこんでいる断崖の上に、竜と青年は佇んでいた。
 海を臨む、その色合いは本来抜けるように青いはずなのに、今はどこか不穏な色合いを見せていた。陽が落ちかけているせいだけではない。空全体が、まるでこれを最後とばかり、赤と金に染まり始めているのだ。
 沈んでいく太陽が、再び昇ってくるのかどうかは疑わしい。現に、夜が忍ぶはずの東の空には、血の色をした闇が染みのように広がり始めている。
 吹き上がってくる風を受けながら、紅竜は終焉の始まりを思った。
 もはや、彼らが出来ることは僅かしか残っていなかった。

 丘陵地帯に湧いて出た屍兵は、駆けつけたカイムと紅竜が一掃した。
 息のある兵達をどうにか安全な場所まで送り届け、後の処置をヴェルドレへと任せた。
 カイムを追ってきた、狂乱と嘆きに猛るイウヴァルトとも闘った。赤毛の青年はフリアエの亡骸を腕に抱いて黒竜の背に乗り、「俺と闘え」と涙と憎悪の滲む瞳でカイムに迫った。
 だが、愛する者の死の衝撃を受け暗示の解けたイウヴァルトが、カイムに敵う筈もない。
 闘いに破れたイウヴァルトは、黒竜とともに何処へか去っていった。
『追わぬのか』
 紅竜は一度聞いたきりだった。
 青年は首を小さく横に振り、西に傾いた陽を背に受けながら遠く去っていくイウヴァルトと黒竜の姿を見送った。
 フリアエの亡骸を大事そうに抱え、正気に戻ってなお、そのまま狂気に堕ちた哀れな青年は、カイムに深手を負わされている。
 あの黒竜はどうするだろう。契約を解くだろうか。死を共にするような風にも見えなかった。契約を解かれれば、あの青年は長く生きられまいと、紅竜は思う。
(いや……もはや望んではおらぬ、か)
 おそらくイウヴァルトの願いは、フリアエと共に逝くことなのだ。
 カイムと紅竜は、去っていく影が雲の向こうへと消えても、じっと佇んだままだった。

 ふたりはヴェルドレ神官長からの合流の合図を待っていた。
 もはや、闘いは人の手から離れた。背後にいるのは人間の権力者などではなく、大いなる意思を持った「何か」の傀儡として動いている、「誰か」だ。
 カイムはその者を、幼い少女の姿をしていると言った。天空の要塞で見かけたのだろう。彼は多くを語らなかったが、兵士達が少女のことを「司教マナ」と呼んでいたと話した。
 知ったところで途方に暮れる。天に弓を引くにせよ、その術など誰も知らない。やはり、分かり易いところから斬り込むしかなかった。
 ヴェルドレと話し合い、彼らは彼らだけで帝国領の中心とされている帝都へ向かってみることに決めた。最も大きな歪みの中心はそこにあると、ヴェルドレは言った。
 最早、大軍を率いていくことに意味があるとは思えない。下手をすれば悪戯に犠牲者ばかりが増えてしまう。かといって契約者が二人と一頭だけで何が出来るのかわからないが、手をこまねいているよりは多分遙かにましなのだ。
 ヴェルドレは取り敢えず、最寄りの駐屯地で満身創痍の連合軍の建て直しと、自分が去った後の指示に急ぎ奔走している。生き残った僅かな兵士たちはこの先、貴重な人間達となるのかもしれなかった。

『疲れたか』
 長い沈黙を破るように、紅竜は声を掛ける。ややあって、『いいや』と平坦な青年の声が返った。
『帝都の敵を殺し尽くせるのが楽しみだ』
 付け加えられたカイムの言葉が、本気なのか冗談なのか判断に迷う。一瞬閉口したが、紅竜は溜息とともに言った。
『殺すことより楽しいこともあろうに。おぬし、他にやりたいことはないのか?』
 すると、青年がゆっくりと紅竜を振り仰いだ。灰蒼の色が、このきつい夕陽の赤のなかではオアシスのように見える。
 彼女は、彼の答えなど期待してはいなかった。カイムは日頃あまり紅竜の皮肉に反応しない。いつも面倒そうに肩を竦めて受け流すばかりだ。
 だがその時、青年は僅かに目を伏せて口元を緩めた。そうだな、と思念で呟く。
『あの』
 と、指を差した先には、燃えるような色合いの空が広がっていた。指につられて紅竜はそちらを見る。
『あそこを飛ぶのはいいだろうなとは、思う』
 聞こえてきた言葉を、彼女は幻聴かと思った。カイムの『声』はいつになく柔らかく紅竜に響く。
『あの色なら、お前は目立つまい。弓に狙われることもない。俺はお前から降りなくて済む』
 紅竜は打たれたように目を瞬いた。
 ――今のは、何だ。どういう意味だ。どういう――。
 カイム、と口を開きかけ、彼女はけれど何を言えばいいのか分からなかった。心臓が軋み、痛む。その痛みが連れてくるものの正体を、紅竜は無意識に怖れた。青年に与えられた花の香が身の内に蘇る。いつの間にか骨の髄まであの馴染んだ香りに侵されていることに気付いた。
 眩暈がする。
(……我、は)
 彼女は唐突に悟った。もう随分と前から、自分がこの毒に侵されていたのだという事を。それは翼のみならず魂まで染め上げ縛り、今や自分は為す術もなく沈んでいくしかないのだということを。
 戦慄く琥珀を閉ざし、紅竜は胸に染みる疼痛を噛みしめた。

 これは恋情という名の、甘い毒だ。

『結局、こうなったな』
 不意打ちのように届いた思念に、竜はぎくりとする。言い当てられたのかと思い、反射的に『何がだ』と聞き返した。
 ――僅かに上擦った響きに、どうか気付かないでくれと願う。
 黒髪の青年は紅竜を見た。
『俺は期待していた』
『……何の話だ』
『お前は俺を好いてるだろう』
 やめろ――と、紅竜は震えた。まさか、真っ向から踏み込んでこられるとは思わなかった。
『な、ん』
『自分で気付いてないのか? お前はそうやって俺に小言や皮肉ばかり言うが、他の者が同じ様な事を口にすれば怒ったり、俺を庇ったりする。ずっと不思議だった。お前は、口では人間など愚劣だ何だと馬鹿にする癖に、やけに人がましい。割り切っているようで、実際はそうでもない。情が豊かで、いざとなればひたすら俺を守ろうとする』
 カイムはまっすぐに薄青い瞳を竜へと向けていた。
 彼の口調は淡々と事実を指摘しているだけで、そこに揶揄といった風情はない。むしろ隠し立てを許さない、どこか残酷な廉潔さがあった。
『最初は、契約相手だからかと納得しようとしたが……お前の様子を見ていて腑に落ちた。きっと、こいつは俺を好いているのだと。分かってからは確信することばかりだった。お前は、自分のことを敵ではないのかと気にしていたが、好意を向けてくる相手を敵だと思い続けることは難しい』
 そう言って、黒髪の契約者は微かな笑みを浮かべた。
 羞恥で死ねるなら、彼女はまさしく瀕死だった。いっそこのまま呼吸が止まってくれれば良いのにと、馬鹿げたことを思う。
 だが、カイムの声音から汲み取れる色合いに、彼女は少し落ち着きを取り戻した。青年の指摘している好意とは、恋情のことではない。親愛の情のことだ。
(ならば、良い。そう思われていた方が遙かにましだ)
 紅竜は心の内でひそりと安堵の吐息を零した。同時に、いつか感じた奇妙なひび割れを、再び自覚する。
 カイムは竜の心を知らぬ気に言葉を継いだ。
『だから期待した。……きっとお前は最後まで俺についてきてくれるだろうと』
『……』
『もう、』
 ――誰も。
 その言葉を黒髪の青年は飲み込んだが、物寂しい響きは紅竜に届いた。
 もう誰も居ない。居なくなってしまった。両親も、妹も、親友も、忠義の臣も。カイムにはもう何もないのと同じなのだ。彼の元に残っているのは、同族でもなんでもない一頭の竜だけだ。
 紅竜は、初めて青年を哀れだと思った。
『……国を、取り戻さぬのか』
 無益なことと知りながら口にしてみる。カイムの溜息に苦い笑みと諦観が混じった。
『カールレオンはもう無い。生き延びることが出来た者は、もう他国で自分たちの生を送っている。今更、王家の再興などと、彼らには迷惑なだけだ。……民の居ない国の王など、何の意味もない』
 紅竜は漠然と思う。
 もし違う運命の中にあったなら、この青年は案外、英明な為政者になれたのではないだろうか――彼の中の何かが狂うこともなく。
『まあ、飛ぶのはやぶさかではない』
 紅竜はぼそりと口にした。
 カイムが見ていることは分かったが、視線を向けることが出来ないからどんな顔をしているのか確認出来ない。誰かを慰めることはいつも難しいと、紅竜は思う。特に、相手がこの青年では。
(そもそも、我はいつのまに人間を慰めようなどと思うようになったのだ?)
 己の変貌ぶりにも呆れ果てる。
『おぬしが我が背に乗っていることにも慣れた。重いから降りろと思った覚えもないな。降りぬというなら、気にせずとも乗ったままいるが良い。取り敢えず、空を飛ぶのを楽しいとおぬしが思うのであれば、まあ殺し合いが楽しいなどと思うよりは、ずっと健全だ』
 一体何を言っているのか。紅竜は途中から自分でも混乱し、分からなくなってしまっていた。
 カイムが笑った気配がする。
 要するに紅竜は嬉しかったのだ。カイムが、殺戮だの復讐だのばかりで染まっているのではないと知って。そして、彼が少なくとも紅竜に親愛めいた情を寄せているのだと知って。
(分かっておる。多分こやつにとっての我への情など、人間のいう愛馬だの愛犬だのに向ける、そういう類の親愛にすぎぬ)
 紅竜はそう思っていた。獣と同列かと思うのは業腹だが、よもや竜と人とで恋情を共有できるとも思わない。
(精々、戦友とでも認識があれば良い方だな)
 内心で苦笑いし、紅竜は恋情を自覚してから早々に達観した。愚かなことだと思う。愚かなことだ。
 愛など所詮愚かな一人遊びにすぎぬ、と吐いた自分の言葉を思い返し、我が身に返るとはこのことかと自分を嗤った。
 然り。これ以上はない一人遊びではないか。竜が、人に恋情を抱くなど。
 空中要塞の外で味わった、身を切るような焦燥を思う。
 再びカイムの姿を見たときの、魂が震えるような歓喜を思う。
 紅竜はやっと自覚した。――そうか、と。
 気を取り直したように吐息をついて背筋を伸ばした紅竜を、カイムはじっと見詰めていた。
 紅竜は話題を変えるように呟いた。
『ヴェルドレめ、いつまで待たせるのだ』
 青年は『そうだな』と同意したが、あれだけ壊滅的な状態だったのだ。それほどすぐに整うとは思えないから、これはただの時間つぶしの会話だ。
 カイムは『そういえば』と、思いついたように尋ねた。
『ヴェルドレの契約相手もドラゴンだと聞いたが』
『そのようだな。石化して久しいらしい。詳しくは知らぬ』
 青年は首を傾げた。
『石化と死は別ものなのか?』
『ドラゴンにとってはな。我らはどちらかと言えば精霊族に近い。肉体よりも魂に存在が依存しておるので、石化などで肉体が封じられても魂が健在であれば死とは言えぬ。肉体と切り離されることで生じる魂の劣化も無い』
 紅竜の説明に、カイムは『分かったような分からないような話だな』と感想を述べた。
『ヴェルドレの契約相手がどうかしたのか?』と紅竜が聞くと、『一度、お前から名を受けたかと尋ねられた』と青年は答えた。
 今度は紅竜が怪訝そうな顔をする番だった。竜の名だと?
『ドラゴンにも名があるらしいのだと、彼が言っていた。彼はその石化した相手から名を受けることが出来なかったらしい』
 紅竜は嘆息する。
『成る程。……どうせ、人間どもの半端な知識の賜物だろうが』
 ――竜の名か、と紅竜は思う。
『あるのか?』
『あるが、お前達の持つ名とは大分意味合いが異なる。ヴェルドレがおぬしにそんなことを聞くのは、我らドラゴンの持つ名が魂の名であり、その名を知ることで契約者にも似た力を得ることが出来るという伝承が、その昔、流布されていたせいだろう』
 カイムがほうと興がるような顔になった。
『それは、どこまでが伝承なんだ』
『面倒なことを面白がるな、おぬしも』
 紅竜は内心渋面を作ったが、『おおよそは合っているが、肝心なことがずれておる』と、言葉を継いだ。
『そもそも我らの名は、負った命の役や責といったものに与えられる名だ。魂に刻まれてはいるものの、生まれついてすぐ己の名を知るものは居らぬ。必要な時が来れば、自ずと自分に刻まれていた名を知る。それが我らの名だ』
『……つまり、お前に名を尋ねても、今のお前が知っているとは限らないということか?』
『飲み込みが早いのは結構なことだ。然り、我はまだ我の魂に刻まれた名を知らぬ』
 それは残念だ、と青年が呟くのへ、紅竜は低く笑った。
『知ったところで、力など手に入らぬぞ。契約者としての力のほうが遙かに勝る』
 灰蒼の眼差しに応えるように紅竜は苦笑いを混ぜたが、カイムのほうでも良く似た笑みを返してきた。
『そんな理由で知りたいわけじゃない。ただお前を名で呼んでみたいと、そう思っただけだ』
 琥珀を瞠り、紅竜は口を閉ざした。
 名を――。
『……そうか』 
 他の諸々を飲み込んで、彼女はほろりと遠くの空へ視線を投げた。
 力の代わりに手に入るものが何なのか青年に教えなくて良かったと、紅竜は漠然と思う。
 なんの力が互いの手に入るわけでは無い。拘束力もない。告げられた相手に利益など何一つない。
 ただ、竜の名を最初に直接与えられた相手は、その竜の信のすべてを受けることになる。竜が、己が名を直接与えるということは、魂を明け渡すことと同義なのだ。
 竜は各々、魂に名を刻んで生まれてくる。その名は天に帰するもの。天以外に名を告げる必要などなく、故に、竜が他者に名乗ることなど、本来は有り得ない。大概の竜族は、己の名を知ればまず最初に天に告げて返す。それが竜としては普通だった。
 天に名を帰した後ならば、気にせず名乗る変わり者の竜も居ないではないし、又聞きで伝播していく竜の名には何の効力もないから、そうして名を残した竜の伝承が、人間の間で伝説を生んでいるのだろう。
 殆どの竜族は互いに名前など知らぬまま生きる。

 だが紅竜は、青年に名を呼ばれたらどんな気がするものだろうと、そんな風に思った。





(10.12.13/11.2.23)


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