第八章-1 鍵穴はやっつ




 帝都とは名ばかりの異形の街で、紅竜達を待ち受けていたのは混迷を極めた状況だった。濃密な瘴気と赤い天に覆われた魔都は閉塞感で息が詰まる。
 真っ当な生き物の姿など、どこにもない。消えることがあるのかと思われるような炎があちこちで燃え続けており、その狭間には黒い影のような亡者達が蠢いている。上空は見たこともない魔族に覆われ、まさしくこれが終末の世界か、と思われた。
 いくつかの小競り合いを繰り返しながら、彼らは帝都を空から見て回った。
 住人はどこへ、と、脅えたように喉を引きつらせるヴェルドレへ、考えるだけ無駄だ、と紅竜は低く答えた。例え炎と亡者をかいくぐって生き延びたとしても、いずれこのような場所で普通の人間が正気を保てる筈もない。とうの昔に取り込まれたか、あるいはもっと早くにこの地を見捨てて逃げのびたか、どちらかだろう。
 取り敢えず帝都の中心に聳えている宮殿のような教会らしきものを見つけ、そこへ降りようとした途端、まるでそれまで微睡んでいただけであるかのように、帝都に巣喰う全てが一斉にこちらを向いた。
 ざわり、と。
 空気が飽和し、得体の知れないものが口を開け笑う。
 紅竜は己の鱗が膨らみ、翼が痺れるのを感じた。カイムの後ろに乗っている老神官長が、悲鳴を噛み殺し飲み下す声を聞く。
 さしものカイムが呻くように零した。
『大した威圧感だな』
「な、何か来……」
 ヴェルドレが握りしめている杖が震えて鳴った。
 雲の合間から降りてきた相手を見て、紅竜はあやうく空の駆け方を忘れてしまうところだった。まさか、と思う。
「……エンシェントドラゴン」
 辛うじて名前を呟く。
 まさか、古代竜までがやってくるのか。この終焉に惹かれて。この魔都を覆う大気に惹かれて。
『なんだ、それは』
 落ち着いている青年の声が、今だけは恨めしい。『伝説だ』と答えたが、どうせ人間である青年には、紅竜の抱いた畏怖など分かるまいと思う。
 古代竜は、紅竜よりも数倍は大きいその巨体を、膨大な魔力で覆った、古の竜族だ。殆どは石化していると聞いているが、生き残りも居たのかと、紅竜は茫然とその姿を見詰めていた。襤褸のようにしか見えない翼は、途方もない魔力で支えられている。己の回りに魔導の力が生んだ幻影のような分身を纏わせ、その竜は紅竜を睥睨していた。
 伝説の竜族。最も原初の存在であり、竜の記憶に忠実な守り手であり、竜族の始祖であり――御使いだ。
 御使い。
 天の。
 天使。
「……ッ」
 紅竜の記憶の泉が、解かれる。水面に水滴が落ちるように波紋は広がり、澄んだ音とともに弾けて解けた。
(我、は)
 ――天使の名を呼んではならない。
(……何故)
 こんな時に、と思う。いや、だからこそなのか。
 彼女は今、初めて己の「名」を知ったのだ。
 審判の時。選択の時だった。

 戸惑い、反射的にその場で留まった紅竜に、『どうした?』と怪訝そうな青年の思念が響く。
 紅竜は脅えていた。
 唐突に識らされた己の名に。その意味するものに。
「……駄目だ。カイム」
 声音が震えるのを止めることが出来ない。
 古代竜は、まるでむずかる赤子を宥め叱るかのように紅竜を見ていた。竜族としての血が、紅竜を糾弾する。
 目を覚ませ。
 己自身を思え。竜たる己を。己の果たす役割を。分を。
 ――何ヲシテイル。
 竜族は使いだ。神の獣とは比喩ではない。卵を護る者。天の造りたもう箱庭を見守る者。駆逐し、君臨し、薙ぎ払う者だ。
 紅竜の本能が湧き上がる。
 ――下(くだ)れ。
 ――下レ。
 ――下れ。
 最後のひとりまで、焼き尽くし、欠片を卵に放り込み、
 ――抱ケ。
 紅竜はえづいた。吐き気がする。血の臭いなどこりごりだ。沢山だ。人の焦げる匂いも、木々の焼ける匂いも、なにもかも、もう。
 ――壊セ。
(嫌だ)
「これ以上、は、進めぬ」
 ――逆らウのか。お前は逆らえルのか。血に。記憶に。本能に。名に。
(煩い)
 ――下れ。下レ。下れ。
 ――天使ハ飛バナイ
(煩いッ)
「聖なるドラゴンと戦うなど、我にはとても……」
 翼が震える。古代竜の、竜族の本能を具現化したような存在感はそれだけで苦痛だった。心にねじ込まれる絶対的な記憶と本能の楔は、容赦なく彼女の領域を侵していく。逆らうことは身が千切れるほどの痛みを伴った。
 寒い。
 紅竜は震えた。
 彼女の纏う、自我という名の矜持が引きはがされていく。剥き出しになった時に変貌する己を想像することは恐怖だった。
 寒い。
 ――と、ふと首筋に温かいものが触れた。
「……ッ……」
 一瞬にして、紅竜は全身に炎が灯ったような感覚を覚えた。温度だけではなく、もっと他の何かが流れ込んできたからだ。
『大丈夫か』
 カイムの思念と共に紅竜に伝わったのは、ひどく優しい労るような情感だった。そんなことは初めてで、紅竜は仰天し戸惑う。
 脳裏に響いていた強制的な記憶の声が薄れ、痛みが和らいでいくのは目の覚めるような驚きだった。
『なんだ、これは……』
 茫然と呟いた紅竜に、微かに契約者は笑う。
『上手くいったか。思念や痛みが伝わるなら、他のものも伝えることが出来るだろうと思いついた』
 黒髪の青年は、まるで何か大切なものに触れるかのように、紅竜の首筋を撫でていた。
『辛そうだったのでな。暖めてやろうかと』
 低い、思念の笑い声が彼女の心の柔らかい部分を慰撫する。
「は、……離せ、ばかもの」
 こんなことひとつで暖まっていく自分が、単純で他愛のない生き物に思えて恥ずかしい。
『お前のそういう反応は実に分かり易いな』
 なお笑われる。彼が手を止める気配はなかった。
「暖めてどうなるものでも…」
『なる。思い出せ、俺達は共に戦っているんだ』
(……ああ)
 カイムの言葉はどんな力よりも大きな輝きを持って竜のなかに落ち、奥底まで沈んで染み通った。
 紅竜は目を閉じた。脳内で喚き散らしていた糾弾の叫びを、噛み砕くように遮断する。心侵す濁流に全力で立ち向かった。
(そうだ、我は)
 愛して、いるのだった。この背に乗る青年を。己の契約者を。
 誤魔化すことの出来ない、愚かな愚かな、けれど決して捨てることの出来ない情動を彼女は抱え、ぎりっと顔を上げた。
 睨み返す紅竜の気配が変わったことに気付いたかのように、古代竜がざわりと翼を揺する。
 裏切るのか、と聞こえた。
「……まったく、どうかしておる」
 深呼吸の後、いっそ晴れ晴れとした気持ちで紅竜は翼を広げた。魔力を溜める。

 ――裏切ルのか。
 ――裏切るつもりか。天に。神に。弓を引くのか。己の名に背くか。

 黙れ!、と紅竜は身の裡に叫んだ。

(本能に膝を折り名に魂を委ねるなら、我は契約を解き、彼の剣に伏せ自らを終える最期を選ぶ)
(そうでないなら、我は契約者の盾となり、永劫、天に弓を引き続けることを選ぶ!)

 彼女は、何の躊躇いもなく身を焦がす恋情へと身を投げた。
 これで良い。後悔はない。この先の選択に何が用意されていようと構わない。
(愚かな愛と笑うがいい)

 ――ソノ男ヲ、殺セ。呪われた女神ノ血族、穢れたヒトの業を背負ウ。
 ――人間ハ悪だ。因子として負の種を孕む。誤差。修正ヲ、行う。必然。欠陥。誤差。欠陥。ケッカン。

 ぶつぶつと蠢く意味不明な言葉のざわめきは不快だったが、紅竜は鼻先で笑った。
「伝説も神も、善も悪も、関係あるか!」
(ただ、彼を愛し、闘う)
 堕ちる。
 紅竜はその失墜感に酩酊した。
 ヒトへと、堕ちる。
 ヒトへの想いに堕ちる。

『その意気だ』
 竜の心の内の闘いを知らぬ青年は、励ますように紅竜の首筋を軽く叩いた。
 からかうような思念の余裕が、紅竜には今は少しだけ癪だった。
「精々、酔狂な馬鹿者と契約した身を恨むことにしようぞ」
 言ってやると、青年は肩を竦めた。
 手近にあった高い尖塔の影に、それまで黙ってカイムと竜の様子を見守っていたヴェルドレを降ろす。彼も契約者だ。いざとなれば己の始末は、自分で付けられるだろう。
「では行く」
 告げた紅竜に、ずっと無言だった神官長は口を開いた。
「お気を付けて」
 それから黒髪の青年にふと視線を向けた。
「カイムよ、そなたとドラゴンの間に、一体何があったのだ」
 どこか夢現を彷徨うな口調だった。問いかけのようではあるが、答えを欲しているという風でもない。
「エンシェントドラゴンに刃向かうドラゴンなど、聞いたこともない」
 神官長の呟きは、尖塔を抜ける風に煽られて吹き飛ばされていく。
 カイムは無言だった。ただ老神官長を一瞥し、紅竜の背に乗って自分たちの敵を見据える。
 『行くぞ』と剣の柄を握り、不敵に笑んだ。





(10.12.14/11.2.26)


back  top  next