第八章-2 鍵穴はやっつ




 その少女を教会の奥へ追い詰めた時、契約者達の胸に去来したのは例えようもない虚無感だった。
 古代竜を退けた後、再びヴェルドレと合流して教会へと乗り込む。
 そこが歪みと魔力の中心であることはすでに明白だった。
 豪奢な教会が崩れ落ちるほどの激しい闘いも、逆に天井が崩落したことで、紅竜が侵入できるようになったことが幸いした。あちこちに仕掛けられた魔導の罠を次々に破壊し、見えない壁に阻まれていた教会の奥へと進む。
 そうして再奥には、見捨てられた者のように立ちつくす子どもが居たのだ。
 数々の屍兵と死霊、巨大な魔獣を操り、カイム達を苦しめた司教マナは、魔導のヴェールを引きはがしてみれば、ただの無力な子どもに過ぎなかった。
 少女は「殺せ」と笑った。
「殺しなさい。殺しなさい。私は神に愛されているの。愛されているから怖くはないの。殺して。殺しなさい。憎むくらいなら殺して。殺して。ころして」
 無邪気に、歌うように、踊るように、少女は言った。
 彼女が両腕を差し上げても、もはや何も降りては来ない。誰も来ないし、どのような魔法も発動しなかった。
 彼女を取り巻いていたはずの強大な魔力はすっかり形を潜めてしまい、邪悪な威圧感も、彼女を守っていた瘴気も、嘘のように溶けて消えていた。
 幼い口から、「殺せ」と繰り返し呪詛のように言葉が吐き出されるのは、気分の良いものではない。
 薄ら寒い光景に、紅竜は眉を顰める。
『……どう思う』
 カイムの思念に、紅竜は答えた。
『……訳が分からぬ。ただ、もはやこの娘はただの子どもだ』
『契約者というわけでもありませんな。……彼女は何かに操られていたのでしょうか』
 ヴェルドレも思念で話に加わる。彼らはそっと視線を交わし合った。
 その間にも、少女は崩壊した大広間の瓦礫のなかで、まるで芝居がかったように歌う。
「私は神に愛されてる。神に愛される子どもは、お母さんにだって愛されるはず。だからお母さんは、私を愛してくれるはず。私はよい子よ。賢い子よ。だから神に愛されたの。神に愛されるような子どもを、お母さんはもうぶったりしないわね」
 らら、と小さな唇が歌う。紅玉のような瞳は、狂気と正気の境に在って揺れていた。
「おぬし、何者だ」
 重々しく紅竜が問いかけると、少女はくるくると回るのをやめ、愛らしい仕草で小首を傾げる。
「神の子よ」
 にこりと笑う。
 紅竜はひそりと溜息をついた。
「神はもう居らぬ」
 一抹の真実だった。
 神かどうかはともかく、この帝都に巣くっていた何かの意思は収まっている。まるで息を潜めて事の成り行きを見守ろうとしているような、薄気味の悪い気配だけが残っていた。この終焉を仕組んだものが、今、何を考えているのかその意図は不明だが、次の一手が動くまで何か仕掛けてくるつもりはないらしい。この教会から湧いて出ていた瘴気が収束したのも、その証拠だろう。
 いずれにせよ、この少女に力を貸していたものと源が同じなら、おそらく文字通り――この少女は見捨てられたのだ。
「もう居らぬ」
 静かに告げる紅竜をじっと赤い瞳が見詰めていたが、やがてぷいとそっぽを向いた。
「……私が嫌いなのね」
 くすくすと笑い、それからカイムにくるりと向き直った。
「ねえお兄さん。殺しなさいな。遠慮なんかはいらないわ。ぐっさりぐっさり殺してよ。ほら殺してよ、お兄さん!」
 カイムは無言だ。ただ目の前の少女が赤いドレスを翻して笑う有り様を見詰めている。
「私、平気なんだから! だって愛されてるもの。神に愛される子どもはお母さんにだって愛されるはず。絶対平気なの! 愛されてるの、だから」
 ふと、幼い声が止まった。表情が抜け落ち、赤い瞳が虚ろに何処かを向いた。
「平気。殺して。殺してよ、もう殺してよ。だってどうしたらいいの。殺して。これから、私どうしたらいいの?」
 指が伸ばされ、青年の腕に掛かる。
「殺して。お願い殺してよ。憎いんでしょう、私が。憎いんでしょう? 憎むくらいなら殺して、殺してぇ!」
 ――憎まれるのは嫌よう! 
 悲鳴のようにあがった甲高い声は、周囲の壁や柱に反響し、崩落した天井を抜けて空へと消えた。
「憎まれるのは嫌。憎まないで憎まないでお母さん! お母さん痛いよお母さん。もうやめて。ぶたないで、捨てないで、憎まないで。良い子にするから良い子にしてるから、神様のいうことを聞いて良い子でいるから、私、死ぬから、だから、だから許して! 憎まないで殺して、殺してぇぇぇ!」
 契約者達は無言だった。
 こんな子どもに何故、と――それは三者ともの胸に浮かんだ思いだった。憎しみはある。だが、哀れだ。
 彼らが出来るのは推測することだけだ。イウヴァルトと同じ、この少女はおそらく、彼女が抱える虚に付けこまれたのだ。何処の娘かもわからなかったが、きっと捨てられた子どもなのだろう。彼女の実母の手で。
(だが、罪は罪だ)
 竜は重い心を決める。断罪は、おそらく彼女の役目だ。
 同族であるカイムやヴェルドレに、それをさせてはならない。少女に、少なくとも遺されているだろう明日を思うなら。彼女が、同族の中で生きていくことの可能性を願うなら。
「おぬしを殺す者はここには居らぬ」
 紅竜の殷々と響く声に、少女の狂乱が止まった。きょとんとした風情さえ見せ、竜の琥珀の瞳を見詰め返してくる。
「おぬしは、殺さぬ。やすやすと死ねると思うな。おぬしが犯した罪を思え。おぬしが呼んだこの世の慟哭を思え。おぬしが背負った事の重さを思え。カイムやヴェルドレだけではない。この世界の何千もの魂がお前を許さない。わかるか、おぬしは一生憎まれるのだ」
「い、や……いやよ」
 少女は崩れ落ちたまま、駄々をこねるように首を打ち振った。
「罪の深さに悶え、のたうち回りながら生きるがいい」
 それでも、生きるがいい。生きるといい、贖罪のために。
 紅竜は思う。死ぬことで、罪から逃げてはならないのだ。そうでなくては――。
(いつの日か、赦されることも出来ない)
「我が言ってやろう。おぬしに救いはあらぬ!」
 断罪の宣告だった。悲鳴があがる。
「嫌ぁぁぁぁぁ! おかあさんおかあさんおかあさん! 許して許して許して許してぇぇぇぇ!」
 少女マナのその声を幕切れの合図に、帝都にのし掛かっていた気配が消えた。

 だが、世界を建て直さねば本当の終わりではない。
 再び封印を施すことに依って、空を閉じ、理を立てなくては。
 錯乱していた少女へ必要な薬と心を安静にする術を施したヴェルドレへ、やれやれと息を付いて紅竜は尋ねた。
「封印の適合者はおるのか」
 竜の言葉に、ヴェルドレが溜息をつく。
「……一刻も早く、新しい女神を捜し当てねば」
 その言葉は、つまり適合者が未だ見つかっていないということだ。
「それに、見つかったところで、すぐには」
 神官長が唸る。そうか、と紅竜と青年が顔を見合わせた。
 封印の神殿が三つとも破壊されて機能していない今、女神として立つ人柱には最初からすべての負荷が掛かってしまう。いきなりの衝撃に、心と体が持つかどうかさえ分からない。
 一番良いのは封印の神殿を先に建て直すことだろうが、その暇があるのかどうか。そうこうしているうちに、じわじわと崩壊していく世界や湧いてくる魔物達で、人間族の社会など、どうにかなってしまうかもしれない。
 いくらカイムや紅竜が契約者だからといっても、世界中の魔物を駆逐することなど出来はしない。
「……」
 ふ、と。
 ――気付いた。
 天啓のように。何かの託宣のように、紅竜は気付いたのだ。
「また、誰かを犠牲にせねばなりません。私は……さしずめ死刑執行人です」
 ヴェルドレの声は聞こえていたが、紅竜には届いていなかった。
(選ぶのか)
 鼓動が波打ち、翼が震えた。
(選ぶのか。我は、それを)
『どうした?』
 黙ってしまった紅竜を気遣うように、カイムが声を掛けた。
 改めたように紅竜は、己の契約者を見詰める。
 灰蒼の瞳には、かつては見ることの無かった色合いが浮かんでいた。竜である彼女には、決して向けられることのなかった眼差しだ。彼が、妹や幼馴染みに向けていたのと同じような、親しむような情が浮かんでいる。
 紅竜の心が痛んだ。痛んで、疼く。
(我は……)
『カイム』
 呼びかけると、『何だ』と青年が答えた。
 その声音に、紅竜は一度だけ甘えることは許されるだろうかと、思った。
 一度だけ、一度だけでいい。
『また、進めぬようになった。……暖めてくれぬか?』
 背を押して欲しいと思う。誇りを胸に、選べるように。
 黒髪の青年の思念が、可笑しそうに笑う。そんな風に笑うことも、以前なら考えられなかった。
 すぐに手が伸びてきて、紅竜の首に触れる。
 撫でてくる掌が、苦しいほど優しいことに気付いて、紅竜はひそりと泣いた。
 躊躇いがちに顔を寄せると、カイムの掌が紅竜の頬を撫でる。
『なんだ、素直だな。ずっとこうでも俺は構わないぞ』
 低く笑う青年に、『ばかもの』、と紅竜が苦笑いを返す。
 ありがとう、と紅竜は目を閉じた。ありがとう、これで行ける。
「もう、大丈夫だ」
 紅竜は顔を上げる。
 そして言った。

「我を封印に使うが良い」

 口にした時、紅竜は己の契約者の顔を見ることをしなかった。
 出来なかった。見てしまえば、万が一にでも心の何処かが揺らいでしまうかも知れない。
 最後の瞬間まで誇り高くあろうと思う。
 それが、己の名を知った時からの紅竜の覚悟だったのだ。
 その名を天に告げる気など、彼女にはない。名を抱えたまま、ひとり行こうと紅竜は思った。
 ――天使の名を呼んではならない。
 青年に名を告げられたらどんなにいいだろうと思う。
 けれど、行くものが遺すには重すぎる気がして、紅竜は気が引ける。名を、もしも告げたら、きっと心の堰は切れてしまう。言葉にしなくとも、今のカイムには彼女の名とともに伝わってしまうかもしれない。狂おしいほどの、この情動が。
(天使か。……やはり、くだらぬな)
 紅竜は自嘲する。
 己に刻まれていたものを、大人しく宿命だと受け入れる気は紅竜にはなかった。
 弓は引き続けるのだ。
 用意された道が、再びこの箱庭の世界を支える駒の道だったとしても、彼女は膝を屈したわけではない。あえて選ぶことで抗おうと思う。刻まれたものの言いなりになど、なっているつもりはない。
 例え、結果としてこれが予定調和だったのだとしても、ただ一つ、そうではないと言い切れる確信が彼女にはある。
 何故なら、今はもう紅竜の選択は、すべて彼女の心の上にあるのだから。
 己の心以外のものに決して従うまいと、紅竜は決めているのだから。
 彼女の心は、黒髪の契約者の上にある。
 金輪際、天に名など返してやるものかと思う。
 その名を愛する相手に告げることが叶わないなら、己ごと永久に封印してくれよう。
「我を封印に使うがよい。精神力、生命力、すべてにおいて人間の比ではない」
 すっくりと背を伸ばし静かに言い放った紅竜を、カイムは驚愕したような顔で見詰めていた。
 一瞬、沈黙が訪れる。
 ヴェルドレは戸惑ったようだ。
「そ、そんなことが。……そうか、それなら……、しかし、よろしいのですか?」
「我の気が変わらぬうち、済ませたほうが良い」
 少しだけ戯けたように言ってやると、ヴェルドレは慌てて深々と紅竜に頭を下げた。
 黒髪の青年は、ただ凍り付いたように立ちつくしていた。





(10.12.14/11.2.27)


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