第八章-3 鍵穴はやっつ




 教会の地下には、一体何に使用していたのか不明な場所が数多くあったが、そのひとつが水浴場だった。
(禊ぎなど)
 この期に及んで悠長なことをさせると溜息をつきながらも、紅竜はそこで水を浴びた。
 教会内部はどこも恐ろしく天井が高く作ってあり、それが紅竜には有り難い。殺風景な岩壁に蝋燭が灯っているだけの、陰鬱な雰囲気の石造りの水浴場だが、竜が水を浴びるのに取り立てて問題はない。
 浴槽から上がると、大きな水音が周囲の石壁に激しく反響して薄気味の悪い効果をもたらしたが、それ以外は静かなものだ。あれほど居た魔物達も、今は影も形もない。
 紅竜が溜息を付いて翼を震わせた時、かつんと靴音を立てて青年が現れた。
『……カイム』
 黒髪の契約者はあれから一言も口をきかない。今もまた仄暗い石室のなかで、彼の薄青い瞳だけが光って彼女を見据えていた。
 紅竜は嘆息する。封印の女神の役を申し出たことを、怒っているのだろうか。もしそうだとすれば、それは少しだけ哀しい。が、己の選択を曲げるつもりは彼女にはなかった。
 彼にしてみれば、まるで紅竜が勝手に決めたことのように思えるだろう。その意図もわからないに違いない。
(理解して貰おう、などとは思わぬ)
 だから許して欲しいと願うことも、紅竜はしなかった。
 出来たら、別れる時には『声』が聞きたいと――思ったが、それも諦めなくてはならないかと彼女は思っている。
 ぱたり、ぱたり、と紅竜から落ちる雫が、地下に響いた。
 大層、静かだった。
 見つめ合ったままの沈黙は息が詰まる。紅竜は口を開いた。
『カイム。ヴェルドレには我の肉体ごと封印するように頼んでおる。この体は苦痛に強いが、それでも消耗はする。封印してしまえば、苦痛によって体が疲弊することはないからな。神殿の分の負荷にも耐えられようし、より長きを保てるだろう。……そのようなわけだから』
『断る』
 断固とした即答だった。
 紅竜は面食らった。久しぶりに聞いた思念がこれか、と目を瞬かせる。
『……まだ、何も言うておらんではないか』
『断る!』
 きつい蒼の瞳が、真っ直ぐに紅竜を射た。
『契約は解かせん。解く、というのなら、この場でお前を殺す』
 恐ろしくはっきりと、彼は言い切った。背筋を正し、一歩も引かぬという気迫も露わに、カイムは紅竜の前に揺るぎなく立っていた。
 紅竜は眉を顰めるような心持ちで、当惑して口を噤んだ。一体、何だというのだろう。この青年の言っていることは無茶苦茶だ。
 確かに紅竜が話そうとしたのは、まさに契約の解除のことだったのだが、それにしても「解くならば、殺す」とはどういう了見だろう。
(これは脅しなのか?)
 首を傾げたが、とにかくカイムが果てしなく本気であることだけは伝わってきた。
 何を言ったものか逡巡したが、取り敢えず、彼女は諭してみることにした。
『カイム、このまま契約をしていてもおぬしにこれまでのような利はないのだ。確かに、おぬしは常人をはるかに超える力を持ったままでいられるだろう。だが、我の肉体が封じられてしまう以上、おぬしの肉体の老化や劣化は避けられん。人と比べて緩やかかもしれぬが、確実に老い、傷も残ってしまう。それに……』
 紅竜は続けた。
『……我の感じる苦痛のいくらかを、おぬしはずっと背負い続けることになるぞ』
 だからこそ、紅竜は契約を解こうと思っていたのだ。
『契約をしたまま繋がっていれば、おぬしの身にも、消えない苦痛がつきまとってしまう。夜の安息は失われ、安らかな眠りは遠くなる』
『それでいい』
『カイム!』
『嫌だ。断る。契約は解かせん。繋がりを断つ気はない』
 にべもない。カイムは些かも紅竜から視線を逸らさなかった。
『……痛みを寄越せ』
 いつか聞いた言葉だった。
 言うべき言葉を失った紅竜の視界の中で、黒髪の青年はやがて静かに目を伏せ、肩を落とす。
『……切るな。頼む』
『……っ』
 ほろりと――零れた言葉に、紅竜の魂が震えた。
 今ほど、この契約者を抱き締めたいと思ったことはなかった。人間のように腕がないことを寂しく思う。彼らのように柔らかい二本の腕があるのなら、この黒髪の契約者を抱き締め、彼がしてくれたように背を撫でてやることが出来るのに。
(カイム、カイム)
 心に焼き付くようなこの情動を告げたら、引かれるだろうか。前言を撤回し、繋がりを切ろうとするだろうか。
 もしかしたらそのほうが、彼にとっては良いのかも知れない。
 だが、紅竜にとってはどちらも、もう恐ろしい。
 心から言葉が零れそうになる。彼女は胸の奥津城で、咽ぶように忍ぶように涙を零した。
 自分は、この青年を置いていくのだ、と初めて認識した。
 他に選択肢がなかったとはいえ、惨い真似をしたと思う。最後まで一緒についてきてくれと言われたのに。
 すまぬと謝りたかったが、今更、それを口にする資格もない。
 結局、紅竜は行くのだから。
『カイム』
 せめて愛を告げるように、紅い竜は言った。
『我の支える世界で生きよ』
 カイムがはっとした顔で、紅竜を見あげる。
『我が、おぬしに空を遺そう。戦いの終わった世界で、青い空を見上げて生きていけ。復讐も憎悪も、我が抱えて行く。おぬしを取り巻く世界が、今度こそ優しいものであるように願っている。……我は』
 彼女は、心を動かす衝動のまま、青年の顔に自分の頬を柔らかく添うように寄せた。
『おぬしの遺してくれたこの繋がりを抱えて、おぬしの生きる世界を支えていく』


 空へと、封印の呪の詠唱が響いていく。
 ヴェルドレの詠唱が始まったあたりから、空は青く穏やかな色合いを取り戻し始めていた。
 教会の広間には崩れた天井から光が差し込み、哀しいほどに明るかった。
 だが、祭壇の上にいる紅竜にはもはや辺りを認識できるだけの余裕はない。
 詠唱の抑揚と連動するように、彼女の身体には激痛が走る。黒竜に受けた魔炎に延々と嬲られ続けるような苦しみだった。
 悲鳴を上げるまいと声を噛むが、耐えきれるものではなかった。
 横たわり、のたうつことしかできない。
 その彼女の躰を躊躇うことなく抱き締め、撫でているのは契約者の青年だ。
 詠唱が完成し、呪の鎖が彼女をきつく縛り上げたとき、とうとう彼女は悲鳴を上げた。竜の躰が衝撃に跳ね上がり、翼は弱く床を掻いた。
『……っ』
 カイムは紅竜を抱き締め、言葉にならない思念で彼女を呼んだ。賢明な青年には分かっている。大丈夫である筈がない。しっかりしろというもおかしな話だ。
 未だに彼女が痛みをカイムに寄越さない以上、この姿を見守ることに耐えるのが己の責だと、青年は思っているかのようだった。
 躰に呪印が刻まれる。それは鱗を浸透し、喰いこみ、容赦なく紅竜を蝕んでいく。呪の刻まれた痕からは、鮮血が流れた。
 紅竜は苦悶し、震えるように息を付いた。
 呪は完成した。もう少し。もう少し耐えれば、肉体の封印が始まる。そうすれば痛みはもう少し和らぐ。封印されてしまえば、痛みは青年にも伝わるようになってしまうが、今のこの激痛よりは遙かにましなはずだ。
 琥珀を開けると、すぐ傍らにカイムの顔があった。
「……、あ」
 紅竜は一瞬、すべての痛みを忘れた。
 ――まさか。
(泣いて)
 カイムの灰蒼の瞳が濡れていた。零れそうなその雫は、熱い熱をもって紅竜の心に落ちていく。
 この青年が泣くことなど、紅竜には全く予想外の出来事だった。胸が震えるほど、その涙を美しいと思う。
(泣いてくれるのか。泣いてくれるのか、我のために、竜である我のために)
「……おぬしの涙、はじめて、見る、な」
 行くな、と、悲痛な思念が聞こえた気がした。言葉にしてはいけないと、青年が封じている思念なのだろう。
 ああ、と紅竜は思った。そして決心する。
 では捧げよう。もうすべてが暴かれても構わない。行くなと泣いてくれるのなら、涙をくれるのなら、有るだけのものを全部差し出そう。
「覚えて、おいて……貰いたいことが、ある」
(涙に殉じて、あげられるものが、もう他に我には残されていない)
「アンヘル、それが我の名だ」
 竜を見上げていた青年の瞳が瞠られ、今度こそ涙に歪んだ。カイムが面を伏せる。零れた涙が、青年の頬を伝い落ちた。
『……アンヘル』
 名を、呼ばれた瞬間、紅竜はひどく満たされた思いに吐息をついた。幸せだ、と思う。
 カイム、と胸の内で名を呼ぶ。もう堰き止めはしない。想いの全てが彼を呼ぶ声音に現れようとも構わない。
「人間に名乗るのは、最初で……最後だ」
 カイムが顔をあげ、引き留めるように竜を仰いだ。
『アンヘル』
 灰蒼の瞳が涙を湛えたまま、ひとつの強い意思を持って彼女を見詰めた。
『いつか、必ず再びお前と会う。必ずだ、アンヘル』
 紅竜の思念が微笑んだ。それが叶うことなのかどうか分からなかったが、彼女は例えようもなく幸福だった。
「さらば、だ。……馬鹿、者」
 心を籠めて告げる。そして祈るように空を仰いだ。
 ああ美しい色だと、思う。激痛に縛られながら、彼女は己の躰が次第に軽く散っていくのを感じた。
(この空を遺そう。世界を支えてみせよう)
 人間のために。
 愛した青年が人間であるがゆえに。


 天使の名を持つ竜は、光となって空に封じられた。
 最後にその名を呼んだ青年は、ひとり地に遺されたのだった。









(10.12.14/11.2.28)


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