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「……アル。なんかあいつおかしくなかったか?」 「大佐のこと?」 セントラルの駅で釘を刺されたこともあって、エルリック兄弟はとりあえず報告書を手渡すために軍司令部へ向かうことにした。ファルマンからの「一緒にどうですか」との誘いを受け、二人は礼を言って車に乗り込む。 ちら、とエドワードが運転席のファルマンに目をやった。後部座席での会話はひそひそ声だ。 「難しい任務みたいだったし、大佐も緊張してたんじゃないの?」 「け。あいつが緊張なんかするタマか」 「兄さん」 窘めるような弟の声には応えず、む、と口元に拳を当てたままエドワードは考え込む。 (『机の』って、言いかけた) あの時、エドワードの目は正確にロイの唇の動きを読みとっていた。言葉にならなかった男の微かな唇の動きだった。 エドワードは年に似合わず歴戦の強者だ。数々の危険を伴う冒険じみた旅をこなしてきている。 例の黒髪の司令官などは「単なるトラブルメーカーってことだ」と笑うだろうが、それでも少年と弟が幾多の修羅場を潜り抜けてきていることに違いはない。 そうした道中において、彼ら兄弟の目的は『情報を得ること』が主であったから、エドワードには相手の口元や視線に注意を払う癖が付いていた。 人は、意外に言葉以外で思わぬ心情や頭の中での考えを吐露するものだ。 そうやって得た情報は、時に自分の命を救う突破口になってくれたりもするため、おろそかにはできない。 「兄さん……?」 弟の呼びかけにも、エドワードは考え込んだまま応えない。こうなると声をかけても無駄なことが判っているのでアルフォンスは口を閉ざした。 何かが引っかかっているらしい兄の横顔を見やって、そのまま窓外に視線を向ける。 軍司令部までは、もうすぐだった。 いつもの大部屋は出立の慌ただしさをそのまま彷彿とさせるごったがえしぶりだった。 主だった面子の二人が居ないため人は少なくて寂しい感じがするが、その代わりファイルだの銃器類だの、それらが入っていたらしい箱だの、支給品の靴だの小道具だのがあちこちに散乱している。 ロイ・マスタングの執務室は流石に扉が閉まっていたが、この乱雑ぶりではそちらも同じようなものなのだろう。ホークアイ中尉の姿が見えないのは執務室の片づけをしているためだと、兄弟には簡単に推察できた。 「お帰りなさい。……って、あ、エドワード君、アフフォンス君も、こんにちは」 両腕に山のような書類とファイルを抱え、分類して元に戻そうとしているらしいフュリー曹長が嬉しそうに、にっこりと笑顔で出迎えてくれる。挨拶を交わすと、すぐにアルフォンスは「手伝います!」とフュリーの所へ駆け寄った。 エルリック家の弟は、小柄な体に眼鏡をかけたこの気の優しい青年と仲が良い。動物が好きで捨て犬やら捨て猫やらを放っておけない性分が同じなので、気が合うのだろう。 ファルマンも手近にあるものから落ち着いた手つきで片づけ始める。そうしながら、「中尉なら大佐の部屋だと思います。行ってきてください」とエドワードに笑顔を向けた。 「うん。乗っけて来てくれてありがとう、准尉」 屈託なく笑い返して、エドワードは上官の執務室の扉をノックした。 どうぞ、と響きの良い発音に促されて、エドワードは執務室の中へと滑り込んだ。 「こんにちは。いらっしゃいエドワード君」 凛とした背筋の美女が、厳しい顔つきと柔らかい眼差しで出迎える。 リザ・ホークアイ中尉。大佐の護衛や秘書も務めている、極めて有能、冷静沈着にして過激なお目付役だ。 「こんにちは、中尉」 エドワードは、他の誰にするよりも丁寧な挨拶をこの女性にする。 それは、あの食わせものの上司が唯一ないがしろに出来ない相手であることへの畏敬や、姉のような年頃の綺麗な女性への憧憬、自分の目的を見失うことなく背筋を伸ばして頭を上げている彼女の生き方への尊敬から来ているのだ。 最もエドワード・エルリックという子どもはがさつなように見えても元来は無礼な質ではない。四角四面に大人への儀礼を遵守するタイプでないだけで、必要とあればそれだけの礼節を装う頭の良さも持っている。 彼が無礼なほどやりたい放題に振るまう相手は、(悪党と認定している者以外では)ロイ・マスタング大佐ぐらいなものだったから、この場合ロイ・マスタングこそがエドワード・エルリックにとって特別な人物だと言えるだろう。本人は断固として認めたりはしないだろうが。 「着いたとき、駅で大佐とバッタリ出くわしちゃってさ。幸先、悪ィったらねえの」 はは、と頭の後ろを掻きながら、少年は背の高いホークアイの前に立つ。 その「やれやれ」と言わんばかりの口調に、ホークアイの鳶色の瞳が和らいだ。 彼女の上司とこの少年は、いつもこんな調子で相手の事を口にするのだが、その実きちんと認め合っている様子なのがとても面白い。仲が悪いのか良いのか判らないが、あれはきっと仲が良いと言えるのだろう。そんなことを言えば両者ともに「誰が!」と異議を唱えそうだ、と想像してホークアイの口元が微かに綻ぶ。 日頃あまり表情を変えたり感情を露わにしたりする女性ではなかったが、エルリック兄弟には優しかった。目に見える形で可愛がるわけでも、甘やかすでもない。だが彼女らしい、的確で必要十分な気遣いや気配りは、幾度となく兄弟の助けになっていた。 「報告書を受け取って置いたら良いのかしら」 「うん。そうしてくれって言ってた。……はい」 持っていた封筒を手渡しながら、エドワードは少年らしい笑顔でホークアイを見上げる。 「聞いたぜ。三ヶ月なんて長いじゃん。めっずらしー」 エドワードから書類を受け取りながら、ホークアイの口元が、そうねと言わんばかりに笑んだ。 「やばい任務? 中尉も行くのか?」 「私たちは後から遅れての出発なの。後の処理をある程度しておかなくてはいけないから」 彼女が後半の問いにだけ答えたことをあっさりと受け流し、 「そっか。じゃあ、俺、アルと一緒にココ手伝ったら図書館にでも籠もるよ。中尉たちの見送りまでセントラルに居るかどうかわかんないけど、気を付けて行ってきて。あいつのお守り大変だろ」 エドワードは、へへ、と悪童のように笑ってみせた。 「ごめんなさい、ゆっくりしていられなくて。お手伝い、ありがとう」 ホークアイの声は常のように澄んで硬質だったが、こんな時は声に柔らかい情感が滲んで暖かい。 微かな笑みと共に告げられた彼女の結びの言葉が亡き母親の台詞とだぶり、エドワードの笑顔がほろりと優しい切ないようなものに変わった。 それじゃ、と部屋を出ていこうとしてエドワードが「あ、そうだ」と振り返る。 「忘れてた。あのさ、中尉。なんか大佐から俺宛に預かってるもんない?」 怪訝そうにホークアイが少年を見やる。 「何だかわかんねぇけど、大佐が『机の中に入れてあるから』って言うんだ。俺に渡したいって。何だよ、って聞いても教えてくんねえし……」 ちぇー、と口をとがらせ頭を掻いた。ホークアイの視線がじっとこちらを見ているのが感じられる。 「なんか参考になるような文献なら早く読みたいっていうのにさあ」 苦笑いして肩を竦め「ケチなんだよあいつは勿体ぶりやがって」と続けながら、エドワードの金色の瞳がひっそりとホークアイの様子を見ていた。 「……さあ。知らないわ。残念だけど」 「そっかぁ。ちぇ、あのやろう戻ってきたら絶対に聞き出してやる! ありがと、中尉」 屈託なく笑って小さく手を振り、エドワードは部屋から出た。 途端に眉が顰められ、口元から笑みが消えた。顔つきが精悍になり、そうしていると奇妙に大人びて見えるのだ。 ホークアイが「知らない」と答えるだろうことは、エドワードには予想済みだった。 ただほんの僅かな隙に――その視線が動く。 エドワードが『机の中に』と言いながらロイの机にわざと視線を送る。それは計算の上で仕掛けた誘導だ。相手が身構えればそのぶん、こちらの視線の動きには釣られやすくなる。 案の定、同じように机に目をやったホークアイの視線が思い当たったかのように一つの引き出しにとまった。有能で聡明な相手ほど陥りやすい、単純な引っ掛け。 彼女が視線を向けていた時間は、恐らく一秒もありはしなかっただろう。 だが、エドワードにはそれで充分だった。 |