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 「兄さん、何をするつもりなの! どうしたの、いったい」
 アルフォンスが押し潜めた声で慌てたように止めるが、一方のエドワードは厳しい顔でどんどんと部屋に入っていく。
 ロイ・マスタングの執務室だった。


 あれからしばらくエドワードは弟と一緒に片づけを手伝っていたが、意識は慎重に様子を窺っていた。
 ホークアイは一通り片づけると、書類などを提出しにどこかへ出ていく。フュリーやファルマンは、物品やファイルの処理に、もとより出たり入ったりを繰り返している。
 ホークアイが出ていくのを見計らって、エドワードはごく自然な動作で当然のように執務室に滑り込んでいった。その姿を見咎めたのは弟だけだ。
 エドワードがロイの執務室に入っていく姿は見慣れたものであったため、ファルマンもフュリーも特に気に留めない。
 だがアルフォンスは大慌てで兄の後を追った。弟は、兄が急ぎの用もないのに無断で上官の執務室に出入りするなど、実際には一度もしたことがないことをよく知っている。
 「兄さん……!」
 エドワードは弟には一切構わない。これも滅多にはないことだ。
 常日頃の傍若無人さを見て他人は『どちらが兄なんだか』と笑うが、エドワードは良くも悪くも長男気質の権化だった。誰よりも何よりも、自分自身よりもまず弟のことを考え、大切にしている。
 彼が弟の声に耳を貸さないのは、余程自分が追いつめられて切羽詰まっているときか、あるいは弟に心配をかけたくないと言う思いに凝り固まっている時だけだった。
 アルフォンスはそのこともよくわきまえている。だからこそ、こんな表情の兄は気がかりだった。
 エドワードは何か、どこか焦燥にかられたような様子をしている。
 金の髪の少年は頬を引き締めたままロイの執務机の傍らに立つと、先程ホークアイが視線をやった引き出しを指で撫でた。
 「! 何をするの」
 驚いたアルフォンスが慌てて兄の手首をとる。どうかしている。この兄は錬金術で人の机の引き出しを開けようとしているのだ。
 悪党相手ならまだしも、日頃世話になっている(兄がどういおうと実際そうなのだとアルフォンスは思っている)人のものなのに。
 「いいから離せ、アル」
 「……兄さん」
 エドワードの声は硬い。何かを恐れているようにも見える、と弟は不審に思った。
 「あれは、駄目だ」
 エドワードの金色の瞳が揺らぎ、ほんの僅か顔が俯いた。悪童めいた表情や不貞不貞しい様子がなりを潜め、綺麗な金の髪を頬に落として睫毛を伏せると、この少年が実は驚くほど端正な顔立ちをしているのだと気づかされる。
 希有な宝玉のようなその目の奥に、今は得体の知れないものに追われる人間の恐れが見え隠れしていた。
 エドワードの拳がぎゅうっと握りしめられる。
 早く早く。間に合わなくなる。もう間に合わないかも知れない。どうすればいい。どうしたらいい。急がないと、理由を知らないと。
 「あれって……大佐?」
 「あの馬鹿のツラ、見たか?」
 あの、顔。あれによく似た表情をエドワードは知っている。
 遠い記憶だ。忘れたくないのに忘れてしまいたい記憶の中に、あんな風な顔がある。
 エドワード。エドワード、と呼ぶ懐かしい声と記憶。優しいこえ、胸がざわめくような、顔。
 エドワード、大丈夫ね。おにいちゃん。アルフォンスをおねがい。なかよくね。なかよくするのよ。大丈夫。お兄ちゃんがしっかりしているもの。だからあんしんなの。エドワード、アルフォンス、愛してるわ。
 (……ッ)
 かあさん。お母さん。オカアサン。その最後の――。
 (畜生)
 「あんな顔しやがって……ッあれじゃあ駄目なんだよ!」
 ぎり、とエドワードが歯噛みした。
 何を言われているのか判らないアルフォンスの力が緩んで離れる。エドワードの両手が軽く打ち合わされ、一瞬、鮮やかな錬成反応の光が起きた。
 パリ、と空気を叩く軽い音がして鍵があっさりと壊れ、エドワードはその引き出しを開ける。
 中には何の変哲もない大きめの茶封筒が在るきりだった。
 あとは整理されて何もない。エドワードの手が迷わずそれを掴んで、その大きな茶封筒を矯めつ眇めつひっくり返して見る。片隅に、小さく『エドワード・エルリックへ』の宛名を見つけて、金色の瞳がはっと瞠られた。
 (これだ…!)
 「……兄さん、宛?」
 アルフォンスも意外そうだ。兄はこれを見つけたかったのかと、ようやく合点がいく。
 だが、どうしてこういうものがあると判ったのか、何故この引き出しだと判ったのかは、アルフォンスにはまだ判らない。
 エドワードは封筒の口を閉じている留め紐を外し、中身を引っ張り出した。
 何枚もの書類と名刺、鍵が二つ。
 そして薄いクリーム色の封筒に入った手紙らしきもの。
 エドワードはその封筒にも自分の宛名が書かれているのを確認して、躊躇いなく開封し、読み始めた。
 弟は弟で残りの書類を見て驚いたような声をあげ、字面を何度も読み返す。


 手紙を読み進んでいくうちに、エドワードの顔がなんともいえない表情に変わっていった。
 それは、悔しい、とも。
 怒りとも、哀しみとも。

 痛い、と叫ぶようにも見える表情だった。

 「あ、ンの――野郎ォッ!」


 ばたん、と大きな音を立てて執務室の扉が開く。
 ぎょっとして顔をあげたフュリーのところに、大変な剣幕で詰め寄ったのはエドワードだった。
 「通信室!」
 「え、エドワード君?」
 たじろいだフュリーに掴みかからんばかりの鋼の錬金術師は、今まで彼らが見たこともないような顔をしている。
 背後に陽炎のような金色のオーラが見えるような気さえした。
 「通信室、どこだ。列車に繋いでくれ! 今すぐ!!」
 「エド君、お、落ち着いて……」
 眼鏡をずり落っことしそうになりながら、フュリーが宥める。あっち、と指し示した方向に脱兎のような勢いで少年が走り出していく。
 騒々しい騒ぎに、大部屋の横の倉庫にいたらしいファルマンが何事かと顔を出した。
 そのファルマンに戸惑ったような笑みを返して置いて、慌ててフュリーが少年の後を追う。もともと通信関係が専門のフュリーだった。全力で駆けていこうとするエドワードを追いながら、「そこを左ですよ、エド君! 違います、左の廊下です!」などと後ろから誘導する。
 通信室にたどり着いたところで、どのみち列車への通信回線などいかなエドワードでも扱えない。フュリーは息を切らせながら、懸命に運動能力の高い少年の後を追っていった。
 「……何があったんです?」
 呆然として誰にともなくファルマンが呟くと、執務室の扉のところに手紙を手にしたアルフォンスが現れる。
 「お騒がせしてすみません」
 鎧の少年は、大きな体を心なしか縮め、小さな声で答えた。
 「見たのね、それ」
 開け放たれた戸口で溜息をついたのは、総務から戻ってきたホークアイだった。
 中尉、と小さくアルフォンスが呟いて慌てて、
 「ご、ごめんなさいっ」
 と、一生懸命頭を下げる。
 「仕方ないわ。大佐が何か感づかれるようなことをしたんでしょう」
 常に姿勢の良い女性士官の視線が、エドワードとフュリーが駆け去っていった廊下の向こうを追う。
 きっと先刻、執務室で投げかけられた質問も自分から何か確証を得るためのものだったに違いない。まったく侮れない少年だった。判っていても常に見かけに惑わされそうになる。
 日頃の短絡的な言動さえ装われたものなのではないかと思えるほど、いざという時のエドワードはただ者ではない。
 物事に聡く勘が働き、回転が速くて、意外に策士だ。
 (そのことが、彼にとって良いことなのかどうかは疑問だけれど)
 ホークアイは吐息をついた。
 あんな風に聡い、ということ。
 なのに、あんな風に不器用で優しく、感受性が強いということ。
 それは本当は彼にとって、辛いことの方が多くはないだろうか。少年のその気質は、彼女の上司を思い起こさせる。だから、おそらくあの二人は互いが気になるのだろう、とも思う。
 「中尉は知ってらしたんですね。……これ、のこと」
 いつまでも見送ったまま黙っているホークアイに、おずおずとアルフォンスが声をかけた。
 「知ってたわ」
 即答だった。
 色々と頼まれたから、と応えるとアルフォンスは小さく、ああそうですよね、と応えた。
 ホークアイの鳶色の瞳に、微苦笑めいたものが閃く。
 アルフォンスは、手紙を読んでいるようだった。読んで、微かに俯いて――その感覚のない鎧の指で、そっと紙を撫でるようにして何度も文字を辿る。
 彼がそうできたなら、おそらく泣いているのかも知れなかった。
 丹念に丁寧に、文字を辿っていく指。


 空っぽの鎧。その空洞にあるものはなんなのだろう。
 そこに残っているものは何なのだろう。
 アルフォンス・エルリック、という少年の魂。
 兄がその愛情の精一杯で、緋の色をした悪夢の中、死にものぐるいでこの世に繋ぎ止めた弟の欠片。けれどそれは目には見えない。触れることも出来ない。
 魂だけの弟は眠りを知らず餓えを知らず、体の痛みも人の体温も知ることが出来ないまま、ただ心の痛みだけを募らせて、兄と彼の周囲の人々を案じている。
 彼の兄は、常にアルフォンスを振り返って笑ってみせるのだ。罪業のすべてを自分の責任と頑なに背負い、柔らかい魂に咎を血で刻み、なお涙を零すことなく笑って見せるのだ。
 アルフォンスはその兄を護るように、祈るように傍らに在る。
 その存在は、しかし鎧であって昔日の弟の面影は、ない。魂を包む厳めしい器は、叩けばきっと虚ろな音が響くだけだ。

 けれどホークアイは思うのだ。


 ――彼のその鎧には、きっと、何にも代え難いほど尊いものが詰まっている。