空の階段




 扉を軽くノックしてから、その部屋へと入った。
 がらんと広い石造りの空間の奥、南向きの窓のあたりに『彼』がいて、現れた私に「やあ」と微かに笑いかけてくる。
 光に透けそうな姿に思わず目を瞬かせ、眼鏡を押し上げることで誤魔化した。
 もともと『彼』は色素の薄い人間だった。髪は毛先が空気と同化しそうなほど細い銀、瞳の深い青は透明すぎて呆気なく流れ落ちてしまいそうだ。
 色合いだけでなく、足下の影まで薄いことに疑念が湧いたのは、いつ頃だったろう。――尤も今は、影だけは他の人間と同じようにしっかりと濃く、私はそのことに密かに安心する。
 それでも、この堅固な部屋で彼の存在はあまりにも頼りなく映った。
 ここは元々、教員室の棟にある空き部屋だった。アトリエ兼私室用に出来ているため広く頑丈で、部屋の扉の反対側の奥には暖炉と大きな錬金釜が据えてある。そこへ今は簡素な寝台と身の回りの僅かな品が持ち込まれて、『彼』のためのささやかな居場所が作ってあった。
 戸口の所で足を止めたままの私に、『彼』は小首を傾げて不思議そうな表情になった。
 「ロクシス」
 どうかした? と尋ねてくる声に、私は口の中で「いや」と曖昧に応えて歩を進める。そうしながら腕のなかの籠を開け、中で大人しくしていた柔らかい存在を取りだして離した。
 そらいけ、と胸の内で呟く。――クリーム色の毛並みの仔猫。にゃあん、と微かに鳴いたその仔が、首輪についている鈴の音を響かせて冷たい床に降りると、どこからともなく黒い毛並みの大きな猫が寄ってきた。
 そうだサルファ。君も同族の友達をつくるといい――歳はだいぶ離れているようだが、仲良くしてやってくれると嬉しい。
 黒猫は仔猫に挨拶をするように耳のあたりを甘噛みして舐めていたが、やがてお互いに挨拶も済んだようでじゃれ合いを始める。すっかり普通の猫らしくなったサルファの姿は、どこか寂しくもあり愛おしくもある。それでもこちらを見上げてくる瞳に、変わらない知性と理性を感じることができるような気がするのは、単なる私の願望だろうか。
 頬の緩む光景を窓際から眺めていた黒猫サルファの飼い主は、楽しそうにくすりと声を立てた。
 「それ、以前ロクシスが校庭の隅で拾った仔?」
 「ああ。……って、何で知ってる?!」
 思わずぎょっとして『彼』を見ると、彼、ヴェインは慌てたように言葉を継いだ。
 「たまたま見かけただけだよ! 餌もやってたのを見たから、ああ、ロクシスって猫好きなんだなあって」
 ――不覚。
 一気に血が上がってくる感覚に、眩暈がしそうだった。確かに私は猫に弱くて、時々ありえない反応になってしまうことがあるんだが、まさかそれも見られていたんだろうか。もしもそんな現場を見られていたのだとしたら、羞恥で倒れそうだ。
 反射的に口元を手で押さえて黙り込んでしまった私は慎重にヴェインを見たが、当のヴェインはにこにこしているだけで、「良かったな、サルファ」とかなんとか言っている。普段は苛々させられるばかりだった彼の無頓着さに、この時ばかりは救われた気がした。
 「……とりあえず、本を持ってきてやったぞ」
 言いながら、寝台の傍らのテーブルに数冊の本を重ねる。恥ずかしさに少しばかり語尾が乱暴になってしまい、軽く咳払いしてから付け足した。
 「卒業まで課題がないとはいえ、勉強を怠るのはよくないからな」
 (違う。そうじゃない)
 内心で舌打ちをする。こんなことを言いたいわけじゃないのだ。自分への苛立ちを募らせたところへ、
 「卒業させてくれるかどうか、わかんないけどね」
 ヴェインの微苦笑に満ちた回答に更に神経を逆撫でされ、私は彼をきつく睨んでしまった。
 「……ッ。君は、どうしてそう……! 大体そこは笑うところじゃないだろう!」
 「ごめん。でも……」
 「うるさい! 卒業しようとすまいと君が君で、錬金術師であることは変わらないだろうが!」
 投げ付けた言葉に、彼は面食らったように「ごめん」と呟き、それから微笑んだ。
 「ありがとう」
 「礼を言われる意味もわからん」
 ふん、と斬り捨ててから自分にウンザリする。どうして私はこういう物言いになってしまうのだろう。ヴェインへのわだかまりは、すでに無い筈なのに。
 置いた本の脇に飾られた花に目を止める。これはきっとアトリエの仲間の誰かが持ってきたものだろう。察するに、あの明るい髪色の少女だろうか。
 「それフィロが持ってきてくれたんだ」
 私の視線に気が付いて、ヴェインが柔らかく笑んだ。優しい穏やかな顔つきだった。
 「フィロ、毎朝、花を届けてくれるんだ」
 歳の割りに幼い感じのするあの利発な少女が、無心に摘んだ花を束ねて部屋を訪れている光景が容易く想像できる。彼女を見ていると、今は遠い妹を思い出さずにいられなかった。
 「その花の横の果物はニケから。お茶とケーキはアンナからだよ」
 「……この知恵の輪は、グンナル先輩か」
 「正解。案外あのひと、器用にこういうものを作るんだよね」
 それは何となく分かる。大雑把なように見えても、精密な工芸品の錬成に最も長けていたのは間違いなく彼だ。あれは突出した才と言えるものだろう。日頃の振る舞いからは想像もつかないから、人間と言うのは本当に面白い。
 私の視線が部屋のなかを彷徨った。ここまで来たらあと二つ、何かなくてはいけない気がするが――果たして異様なものが目に留まった。
 「……すると、あそこのアレは」
 と、天井近くに釘で打ち込まれている派手派手しいリボンを付けたわら人形を指さす。
 「……うん。パメラだよ。部屋が殺風景すぎるから、ふぁんしーにしてあげるわねって……」
 わら人形に書いてある名前が校長の名前のような気がするが、そこはまあ放置して置こう。あんな場所、幽霊のパメラ以外に手の届きようがないのだから、名前を書いたのが彼女であることは疑いようがないだろう。パメラは生前、校長の同級生だったらしくこの学園では古株だ。彼女が毎晩のように校長の枕元に立って、ヴェインへの処遇に恨み言を言っているという話は本当だったらしい。
 「……で、あの部屋の片隅にある赤と白の四角い箱のようなものが」
 「ムーペが持ってきたんだ。なんかね、入院患者の復帰を願って激励に贈られる伝統的なものなんだって。退院したらこれで遊べっていうんだけど、どうやって遊ぶものなのかちっとも分かんないんだ。『げーむそふと』がどうの、『でんげん』がどうのって言ってたけど、何の事やら、いつもながらムーペの言うことはさっぱりだよ」
 まあ気持ちだけ受け取って置こうと思って、とヴェインが苦笑いする。そもそも入院患者でもないんだけどね僕、と付け加える。
 まったくもって幽霊のセンスも、謎の軟体生物の知識も実に不可解極まりない。が、アトリエの誰もがヴェインを気に掛けているのは事実だ。
 うっかりそう思ってしまってから、自分が今まで一度もここへ足を運んだことがなかったことを思い返す。あれからもう一週間は経つのに。
 バツの悪い気分に視線が泳いだ。彼を気に掛けていなかったわけじゃない。ただ――。
 「僕、幸せだなあと思うよ。こんなに気遣って貰えて」
 唐突に、ヴェインがひっそりとそう言って微笑んだ。窓の縁に寄りかかって、寝台の上に上がり込んだ二匹の猫に視線を送る。
 「戻ってきて良かったって思う。消えてしまわなくて本当に良かった」
 「……そう、か」
 「引き留めてくれて、ありがとう。ロクシス」
 「……ッ」
 ずきり、と胸が痛んだ。思わぬ笑顔は不意打ちだった。
 「違う。私は……」
 酷いことを言った、と思っていた。ヴェインをこちら側へ引き留めようと必死で、だが咄嗟に思いついたのはあんな風に辛辣に煽ることだけだったのだ。
 そもそも、ヴェインの内にあるはずの『執着』をどうにかして呼び起こしたくて、私は以前から無意識に彼をこづき回していたような気がする。多分、グンナル先輩が良いようにヴェインを連れ回していた理由と根底は一緒なのだ。
 本気で彼を嫌って疎ましがっていたのは最初の頃だけの話で、いつのまにか私は彼にいい知れない不安を覚え、その不安から目を背けたいばかりに彼にきつい態度を取っていた。
 嫌いだと見詰め続けることは、好意を持って見詰め続けることと似ている――そう笑ったのは私のマナだ。
 『どちらも強い興味や関心を持っていることに変わりはないじゃろう?』
 そう言って彼女は可笑しそうに目を細めた。
 言われなくても分かっていた。いかに私が愚か者でも、彼に対して抱く不安が、好悪どちらの感情から来ているのかぐらい気付く。ただ出逢いが出逢いだっただけに、認めることを渋っていただけなのだ――まるで、幼児のように。
 卒業を前に自分の拘りに決着を付けようとヴェインに決闘を申し入れ、勝敗が付いた後、彼の口から再戦を受けて立つ言葉を引き出したとき、私は本当に安堵した。『人』らしい彼自身の言葉を、初めて聞いた気がして――。
 だから、何もかも捨てて私との約束も放って、ただ愚鈍なまでの頑なさで消えていこうとする彼を説得するのに、ああする以外の方法を思いつかなかった。
 喪失への恐怖と彼への強烈な怒り。あの時、私が口にした言葉は、私自身にことごとく跳ね返り突き刺さった。
 「人を高みから見下すのはさぞ気分が良かっただろうな」と私は彼を糾弾したのだ。酷いやり方だった、と思う。
 ヴェインが誰かを見下したことがないことなど、百も承知だった。大体、彼が誰かを見下してかかるような、良くも悪くも人間くさい奴だったなら、私は色んな意味でもっと安心できたろう。『テオフラトゥスの息子と言っても所詮はただのつまらない奴じゃないか』と小馬鹿にすることも出来たし、存在を無視する事も出来た。これほど彼への執着が募ることもなかったように思う。
 むしろ、周囲を見下していたのはかつての私だ。私はどうしようもなく意固地で、プライドばかりが高い。引き留めるのにも、彼を貶めて焚きつけるような、捻くれたやり方しか出来ない未熟ものだった。

 黙ってしまった私を、ヴェインが気遣うように覗き込んでくる。
 「お茶、飲まないか? ロクシス」
 躊躇いがちな誘いに、気を取り直して頷いた。この部屋を訪れるのには勇気が必要だった。意を決したのには訳がある。
 ――私は、今度こそ君ときちんと向き合わねばならない。
 勧められるまま椅子に腰掛け、穏やかな手つきで茶器を扱いながら丁寧に茶を煎れてくれるヴェインを見詰める。アンナに言われているのだろう、律儀に砂時計をひっくり返して茶葉を蒸らす。綺麗な色合いの砂時計は、アンナが調合したものだろうか。
 目を凝らすとヴェインの両手首に薄紅い模様が刻まれているのが分かり、私は眉を顰めた。彼が今身につけているのは学園の制服ではなく、袖回りや首まわりの緩い病人服のようなものだから、よく観察すれば同じ模様が喉元に刻まれているのも見えてしまう。
 おそらくは両の足首にも同じモノがあるのだろう。彼は今、囚人と同じ扱いなのだ。
 「はい」
 ヴェインは私に茶の注がれた陶製のカップを手渡して、向かいの椅子に腰を下ろす。
 言葉のないままの私を気にした風もなく、自分も茶を飲んで「おいしい」と呟いて笑んだ。
 鈴の軽やかな音は止んでいる。猫達は寝台の上で仲良く丸くなって、毛並みを穏やかに上下させていた。
 拍子抜けするほど穏やかな沈黙が生まれ、私も茶を口にする。アンナらしい調合の、清涼感のある茶だった。
 吐息をついて視線をあげると、ヴェインと目が合う。一瞬、表情の選択に困ったが、彼のほうに先に微笑まれて戸惑った。

 やはり私は不器用者だ。
 向き合って、彼に確認したいことと、彼に言わなくてはいけないことははっきりしているのに、そのどちらのこともどう切り出して良いのか途方に暮れる。言葉にすれば簡単なのだろうが、うっかり棘のある言い様をしてしまいそうで恐ろしい。
 「ロクシス」
 「なんだ」
 「カードゲームの相手をしてくれないかな」
 「……は?」
 思いも寄らぬ台詞に、自分でも素っ頓狂な声が出た。
 「ほら以前、ロクシスはカードが得意だって、他のみんながそう言ってたから。僕はロクシスとやったことないし、折角だからやろう」
 ヴェインは、こんな風に笑う人間だっただろうか。こんな大人びた顔で、はっきりと意向を口にする人間だっただろうか。
 なんとなく気圧されるように、私は「いいだろう」と了承した。
 持ち慣れたカードを取り出し、切る。そうだな、差し向かいでこんな遊技もいいかもしれないと、そんな風に思った。
 なるべく運が作用する性質のゲームを選んで、やり方を彼に教えながらカードを繰る。運の要素が強ければ、ある程度ゲームとして成立するだろう。そうでなかったら私と勝負になりはしないから。そう言うと、
 「そんなに強いんだ」
 ヴェインは素直に目を丸くした。
 「年季が違うからな」
 「お父さんに教わったって言ってた」
 「そう。カードは生活の糧だった、父と私にとっては。遊びではなかったのだから、強いのは当たり前だ」
 言葉は以前よりずっと抵抗無く滑り出た。清々とした気持ちでカードを配る。そうした自分の境遇を恥と思う気持ちは、あの最後の闘いで捨てた。
 流石に鮮やかだなあとカードを操る私の手つきに感心した後、ヴェインは自分の手札を言われたとおりに確認しながら「綺麗な絵柄のカードだね」と嬉しそうな顔をした。
 「ゲームに絵柄の芸術性は関係しないぞ」
 「分かってるよ」
 何が面白いのか、ヴェインは肩を竦めて笑う。
 しばらくはカードの山を築きながら手札を集めることに互いに執心した。
 思った通り、ヴェインは勘がいい。飲み込みが早くて応用が利くのは元々の能力なのだと分かって、安堵する自分がいた。こうした力は錬金術には不可欠のセンスだから、『不思議な力』とやらを失ったとしても、彼は学んだ事柄だけで充分、錬金術師として生きていけるだろう。
 やがて、ヴェインはまるで天気の話でもするような調子で、こう尋ねてきた。
 「ロクシスのお父さんってどんな人だった?」
 「……」
 思わず彼を見る。ヴェインはカードを見詰めたままだ。
 一瞬、何と言ってやろうかと思ったが――ふと、肩の力を抜く。もう肩肘を張らなくても良いのだ、と思い直す。
 急に軽い疲労を覚えたが、それは全速力で走り通してゴールを抜けたのだ、と気付いたときのような心地よい疲労感だった。
 「優しい人間だったさ」
 私は微笑んでいたかもしれない。苦笑いに近いものだっただろうが。
 「優しい人間だった。それがことごとく裏目に出て全てを失うような羽目になっても、誰のことも悪く思わないような、そういう人だった」
 ヴェインは黙って聞いていた。こんな話が聞きたいんだろうか、と思ったが、彼はきちんと真っ直ぐに私を見ている。話してよ、と聞こえた気がして、私は続けた。
 「以前、少し話をしたと思うが……ローゼンクライツの家は、実質はもう無い。名だけが残って居て、家系は絶えたも同然。私が最後の直系だ」
 名門とは名ばかりの落ちぶれた貴族、それがローゼンクライツ家の実態だった。名高い錬金術師を数多く輩出したと言われているが、その影ではもっと多くの違法な錬金術師を生み、到底表沙汰には出来ないような実験や研究に明け暮れていたらしい。家が没落していったのはそうした振る舞いの報いだという人間も、数多くいる。
 「今の世では、幸い、土地もない貴族の内輪もめなんかに興味を持つ人間は少ないからな。未だにローゼンクライツの名なんかに一目置いているのは錬金術の世界の人間くらいで、『外』では私の家名なんて誰も気にとめはしない。ある意味、父にも私にも楽ではあったな。……私が錬金術師になりたいと決意するまでは」
 「お父さんは、ロクシスが錬金術師になるのは反対だったの?」
 「そうだな。反対したかもしれない。それとも、案外無邪気に私のことを喜んで応援してくれたか……父にはとうとう告げなかったから、本当は彼がどう思ったかなんて永遠の謎だ」
 ヴェインがふっと表情を変えた。言葉の持つ意味に気付いたのだろう。父は私が十四の時にこの世を去った。
 私は手札を揃えて、「そら、これで私の勝ちだ」とテーブルに開いてみせる。それから指でテーブルをノックし、ヴェインに手札を出すよう促した。
 晒される彼の手札を検分する。
 「ああ、惜しかったな。だがこれでは狙いすぎなんだ。欲をはると勝機を逃すぞ。正直すぎる駆け引きも、すぐに手の内を読まれる。勝負にはハッタリも必要なんだ。グンナル先輩を見習え」
 事実、勝負師としてのあの先輩は侮れない。
 ヴェインは頷くと「もうひと勝負」と指を立てた。了承し、カードを集めて再度切り始める。
 小気味の良い音を立てて配られるカードを見ながら、彼は、
 「ロクシスは何故、錬金術師になろうと思ったの?」
 と質問してきた。
 なんだ質問攻めだな、と可笑しくなるが、もう鬱陶しいとは思わない。多分、彼には必要な問いなのだ――今を乗り切るために。
 「当てつけだな」
 自嘲するように最後のカードを放ると、ヴェインが「え」と驚いたような声を出した。
 「最初は当てつけだった。父を馬鹿にした連中への。色々とあって……」
 そう、多額の借財とか、その肩代わりを買ってでた母方の錬金術師嫌いの祖父とか、祖父の出した容赦ない条件とか、身勝手な縁戚達とか、そういうお定まりの、聞いても大して面白味もないような出来事が色々とあって――。
 「父は、実質、親類縁者から放逐されたんだ。流れ者も同然の状態で。それでも人の良い父は家名を自分の代で潰さずに済んだことを感謝しながら、こんな山師のようなやり方で生きた。私は、母と一緒に行け、と父に言われたが、言うことを聞かなかった。父を一人にしたくなかった。危なっかしい癖に世間知らずで、のほほんとした父には苛々させられたが、放って置くことなど出来なかった」
 手札の影からヴェインがしげしげとこちらを見ている。
 「愚かで、お人好しで、カードの腕前も良い癖に平気で詐欺られて苦笑いしているような、手のかかる腹立たしい父だったが……私は父が好きだった」
 思わず深い溜息が零れる。ヴェインは何かひどく得心したような顔だった。
 「父のことが好きだったよ。だから、父を虚仮にした縁者どもを見返してやりたかった。ローゼンクライツの名を最後に私が飾ってやろうと誓った。父が誇ってくれるような、そういう錬金術師になりたいと思ったんだ」
 まあ、現実には私にはあまり才能がなかったらしく、相当悲愴な努力をしなくては、この学園にすら入れず、マナとも契約出来なかったわけだが。それでも首席での卒業が決まった今を見れば、私の努力と勤勉は報われたということなのだろう。
 「……今は?」
 「?」
 「今は、どう? 当てつけで錬金術師になるわけじゃないだろ」
 ああそういうことか。
 「そうだな。今は違う」
 苦笑いしながら、手札を切る。
 「卒業したら、ロクシスはどうするの?」
 静かに、さり気なくその質問は落とされた。カードの山から手札を引こうとしていた指が思わず止まる。
 ヴェインを見ると、彼は自分のカードの影から真っ直ぐにこちらを見ていた。
 ――やれやれ、先に聞かれてしまった。
 どうするかと暫く逡巡し、ゆっくりと答えた。
 「取り敢えず、暫くは旅に出ようと思う。まだまだ見聞を広めたいからな。南の……海のほうへ足を運んで、海の素材を研究したい。あちらでは鉱石も豊富だそうだから。それから北へ向かいながら、どこか適当な場所に庵を構えてアトリエを持ちたい、と思っている」
 私が口を閉ざすと、ヴェインは「そうか」と呟いた。
 緊張で冷たくなった指先でカードを取る。滑って二、三度取り損なったことに気付かないで居て欲しいと思う。
 『むろん、君との勝負も忘れてないぞ』と、その一言が軽く言えればどれほど楽か。
 だが実際、その約束を果たそうと思えば、前提となる事実が必要だった。
 つまり――勝負を申し込める距離にお互いが居るように努めるか、もしくは緊密に連絡を取り合っていく努力をするか。交友を切らないようにすること、それが大前提なのだ。
 しかし彼は――彼も、今でもその約束を望んでくれているのだろうか。
 「ロクシス」
 ひどく穏やかな声が私を呼んだ。いつの間にか逸らしていた視線を戻すと、ひたりと見据えてくるヴェインが居る。
 彼は真摯で、そうして静謐だった。
 その指先が自分の首元を撫でると、なお一層紅い呪縛が目立つ。
 「以前、君が、僕に首輪の話をしただろ?」
 私は頷くことしか出来なかった。サルファの首輪を調合する際、もっと精度の高いものが錬成できないかと思案する彼に助言をした。その折りに、疲れていた私は思わず本音を零したのだ。曰く、
 『どうして君の猫の首輪を作る手伝いをしなくちゃいけないんだ。君に付ける首輪ならともかく』。
 失言だったが、慌てて誤魔化した。
 他愛の無い、下らない話ですむ筈だった。
 「覚えていたのか」
 苦い思いで呟いた私に、ヴェインは微かに笑う。
 「あの時は君の本意がわからなかったけど、今ならこういうことかとよく分かるよ」
 彼の首に刻まれているのは虜囚のための術式だ。
 手首と、足首にも同じ物が。
 それは彼がこの部屋から出ようとした時に発動するのだ。彼は瞬時に引き裂かれ、二度と一つには戻らない。
 そもそもこの部屋自体が術式に覆われていて、外の人間は出入り出来ても中の彼が出ることは出来ないようになっている。術式はカルナップ教頭のものだ。学園の教官達のなかで、最も厳しく最も背筋の伸びた師である彼女の術は、彼女自身のように堅牢で、それでいて優しい気遣いに満ちている。光と風をふんだんに通し、ヴェインに害もなく(ただ出られないだけで危険はない)、入ってくる生徒達にはここが檻だと気付かせないですむ慎ましさを備えていた。実際、ニケやアンナあたりは部屋が閉ざされれていることに気付いてはいないだろう。
 だがそんな教頭の心遣いを踏みにじるかのように、彼の首と手足に枷を嵌めた連中が居るのだ。
 どれほどの教頭の抗議にも耳を貸さない、それは学園の外からヴェインの体を調べるためにやってきた錬金術師たちだった。
 未知の存在である『彼』への恐怖。有り得ない筈の存在である『彼』への嫌悪と畏怖と、下劣な好奇心。そうしたものの象徴が彼に巻き付いている赤い紋様だった。
 きっと私は色を失っていたに違いない。
 「……ッ違う! 待ってくれ、そんなことじゃ……」
 思わずガタンと椅子を蹴って立ち上がった。大きな音に驚いたのか、寝台のほうで鈴が鳴った。サルファが咎めるようにこちらを見ている。
 「冗談じゃない! そんな」
 「ああ、ごめん。分かってる、こっちの意味なのではなくて」
 ヴェインの手が「こっち」と自分の喉元を押さえる。押さえて、淡く瞳を笑ませた。そういうことじゃなくて、と小さく言い淀んでから、彼は少しだけ苦笑いを浮かべる。
 「……いつから、知っていたの?」