第二章 祭壇はふたつ




 ――帝国の奴らを殺せるなら、どちらでも同じ事だ。
 黒髪の青年は冴えた薄蒼い瞳で真っ直ぐに紅竜を見て、口元を笑ませた。



 森の野営地で過ごした明け方、紅竜は脳裏に響く悲痛な『声』を聞いた。
 声というよりも悲鳴に近いその叫びが聞こえたのは一度きりだったが、実際にあげられた悲鳴はひとつやふたつでは済むまいと予想がつく。最も強い思念だけが、辛うじて竜に届いたのだ。
(人間のものではないな)
 ヒトの思念は聞き取り難い。契約者のものならばともかく、普通の人間の悲鳴など、いちいち聞き取ることなど出来はしない。
 そもそも、そんなものが聞こえた日には、絶え間なく頭のなかに人間の悲鳴が響くことになってしまう。それほど、人の世に争いと諍いが絶えたことはないのだ。
(……エルフか)
 紅竜はのそりと身を起こした。夜も充分に明けきらない刻限だったが、事態は切迫しているようだ。
 身動ぐと、すぐ傍らに身を丸めて寝入っていた青年が目を覚まし、ぼんやりとした表情で、どこか不思議そうに紅竜を見上げてきた。
 次の瞬間、竜としての体を認め、彼はぎくりと硬直して身を震わせる。咄嗟に、その口が叫びの色を象ったのを、紅竜は見た。青年の手が無意識に剣を探す。彼の鼓動は乱れた槌のようで、呼吸が早い。
 紅竜は目を細め、じっと青年を見詰め返す。彫像のように動かずにいたのは、意外にも、青年を驚かすまいという気が働いたせいだ。
(こやつ、やはりドラゴンに襲われたことがある)
 昨日の老将といい、この青年の今の反応といい、どうもそのように思える。初めてまみえた折りにぶつけられた、激しい殺意と敵意も、それならば納得がいく。
(ブラックドラゴンか)
 竜種も色々だが、紅竜とは別の意味で黒竜は異質な同族だった。
 基本的に竜は単独行動かごく少数での行動を好むが、黒竜はどういうわけか群れる。子と親が群れているわけではない。血族でもない個体同士が、集団を作り好んで狩りをするのだ。
 気性は荒く、粗暴で狡猾だ。知能は間違いなく高いが、竜種独特の知性はあまり見受けられない――少なくとも、表面に出ない。
 もしかしたら想像も出来ないほどの深淵な知性を持ち合わせているのかもしれないが、彼らと話をしたことのない紅竜などに、分かる筈もなかった。
 紅竜は黒竜達を好いては居ない。出来れば関わりになりたくない同族の筆頭だ。
 黒竜達はどういう理由でか知らないが、帝国に協力するような行動をとっている。取引があったのかもしれず、あるいは暗示にかかっているのかもしれないが、紅竜を騙し討ちにして帝国兵に引き渡したのはこの黒竜達だった。
 竜種のなかでも抜きん出た飛翔力と体力を持ち、最も鮮やかで高熱の炎を体内に秘めると言われている紅竜を、正攻法で人間が捕らえることができるわけはない。
 もともと紅竜は黒竜達をあまり良く思っていなかったが、今度の経緯で明確な嫌悪を覚えていた。それだけに、もし青年が本当にあの黒竜達と出くわしたことがあるのだとしたら、多少同情する気にもなった。
 契約者の青年は、数呼吸置いて己を取り戻した。紅竜から視線を逸らし、拳をきつく握りしめ、深い溜息をつく。
 どうかしたか、と声を掛けるような野暮を紅竜は持ち合わせていない。代わりに、『おぬし、声を聞かなんだか』と問いかけた。
 怪訝そうに向けられた蒼い瞳には、もう先程までの動揺は影もない。良きにつけ悪しきにつけ鋼のように強い意志を持つ人間だ、と、紅竜は少し感心した。
『まだ無理か。先程、悲鳴を聞いた。あれは多分……エルフのものぞ』
 紅竜の言葉に、はっと青年は目を瞠り立ち上がる。
 事態は怖れていた最悪の展開を迎えようとしていたのだ。
 
 すぐに野営地には主だった隊長格の者が集められた。一般の兵士達は出立の準備を整えるため、慌ただしく動いている。
 紅竜はカイムを通し、イウヴァルトと集まった面々に里の窮状を伝えた。その上で決断を促す。
 里へ行くのか、それとも諦めて他の地を当たるか――ここからならば、山岳地帯を抜け砂漠の神殿へと逃れることも出来る。ぐずぐずしていれば、帝国兵に動きを気取られてしまうかもしれない。
 だが、竜の進言に赤毛の青年イウヴァルトは頑迷に首を振った。
「契約者の力だかなんだか知らないが、この目で見ないことなど信じられるか!」
 赤毛の青年は声を荒げる。まるで子どもの癇癪のような言い様に、紅竜は呆れた。なんとまあ幼いことか。
 別に人間などに信じて貰わずともなんの痛痒も感じない紅竜だが、契約者と女神を護る必要はある。
 さて、どうしたものかと思案した。無理を押し通しても仕方がない。「契約者の力」という未知のものに人々が半信半疑であるのもまた事実だ。
 カイムとイウヴァルトの双方に配慮してこっそりと顔を見合わせる兵士達に、イウヴァルトは更に声を大きくした。
「エルフの里へ行くのが一番近道なんだ! 里へ出発するぞ!」
「しかし……」
 苦り切った顔で隊長の一人が、後ろに佇む、風に折れそうなほどに優雅で細い姫君に視線を向ける。つられて数名がそちらへ顔を向けた。
「私はどちらでも構いません。進むも退くも、御心のままに」
 視線を受け、娘が細い声で応えた。両手をしっかりと前で組み、背を伸ばし、ただ感情だけがそこに無い。
「心配なさらずとも、容易く膝を折ることはいたしません。私は生き抜かなくてはならないのでしょう? 封印として」
 その声に、どこか皮肉気な色合いを感じて、紅竜は目を細める。
 言葉の最後に彼女は己の兄を見た。微かに頬に上った笑みは美しかったが、どこかうそ寒い。
 紅竜は初めて思った。なるほどこういう表情をすると、兄妹はよく似ている。ひそりと己の契約者へ目をやったが、彼は妹のほうを見ていなかった。いや、正確には妹のほうへ顔を向けはしたのだが、視線を合わせていない。
 妹姫は面を伏せ、その拍子に足下をふらつかせた。
 素早く支えたのはイウヴァルトだ。どこか刺々しい眼差しで非難するようにカイムを見る。フリアエは小さく赤毛の青年に「ごめんなさい、平気です」と呟き、
「ただ、私が行くことで、エルフ達に迷惑を掛けなければ良いのですが……」
 そう続けた。
 ここまで来ておいてその言葉はもう遅い、と紅竜は内心で呟いた。それにどちらにせよ女神を匿わなくても、遅かれ早かれエルフ達は襲撃されたことだろう。
「そんなことを言っている場合じゃない!」
 イウヴァルトは女神の肩を抱き、必死の面もちで一同を見渡した。
「大体、平気でなんかあるものか! 彼女の身体は封印の負荷によって限界に来てる。俺は一刻も早く休めてやりたいんだ!」
 赤毛の青年の訴えに皆は一様に難しい表情をしていたが、例の老将がひとつ頷くとカイムに向き直り言った。
「カイム様、どのみち我らにはこのまま進むしか道はないように思います。ドラゴン殿の言うことが正しいとなれば尚のこと、放置は出来ませぬ。そもそも先に助力を請おうとしていたのは我ら。また、エルフは封印の神殿の要です。その悲鳴を無視して見捨てたとあっては、我らは非道の者とのそしりを受けましょう。それに万が一、封印が破られでもすれば、フリアエ様のお体にも障ります」
 カイムが頷く。
「しかし、声とやらが本当なら、里周辺の森には帝国兵どもが……」
 不安げな言葉に、黒髪の契約者はやっと紅い竜を見上げ、自分の言葉を皆に伝えるようにと言ってきた。
 承知して、紅い竜が口を開く。
「カイムの命だ。里へは我らが先行する。途中で帝国軍に当たった場合は、我らが敵陣を蹴散らし、主戦力を削いでおくゆえ、おぬしらは後方から二隊に分かれて来るがよい。最後尾は傷兵と女神とその護衛、及び後方の警戒部隊。先頭には気力と武力の勝るものが立ち、我らが打ち漏らした帝国の残党を殲滅せよ。捕虜はいらぬ」
 竜の言葉と同時に、カイムは酷薄そのものの笑みを浮かべた。魔獣が牙を剥いたような、そら恐ろしいような迫力のある顔だった。
 ひゅ、と誰かが息を飲む。
 捕えることも逃がすこともするな、と黒髪の青年は言っているのだ。例え、怪我をして敗走してくる敵兵であっても容赦なく斬り捨てよ、と。
 イウヴァルトは一瞬物言いたげにカイムを見たが、黒髪の青年は黙殺した。
 苛烈なように聞こえるが、青年の指示はこの際正しい。補給のあてもなく、自分たちの体力を賄うだけが限界の残存部隊に、捕虜など養う余力はないのだ。また、情けをかけて敵兵を逃がせば、結果として背後をとられたり援軍を招きよせるような事態になりかねない。
 だが――、と紅竜は思う。
(……そこで笑う意味がわからぬ)
 本気で楽しいと思っているのだろうか。――闘うことが。敵兵を滅することが。
(楽しい、のだろうな)
 淡々と思った。
 契約した後の青年はまさに鬼神だった。
 周囲の兵士達の言い様を聞くともなく聞いていると、もともと青年は闘神と称されるほど強かったらしいと知れた。
 剣技にも王家の神器を使うことにも長け、視力も反射神経も群を抜いて高く、戦に置いて不可欠な精神力も持ち合わせている。竜の背に乗るなど初めてだろうに、高さにも速さにも怯むことなく乗り方をすぐ体得したところを見ると、騎馬の技量も高いことだろう。
 ただでさえ強い復讐鬼の青年が、竜との契約で手に入れたのは計り知れない人外の力だ。今や、単身で敵兵の軍勢に突っ込んで行っても、青年の技量ならほぼ全てを蹴散らすことが出来る――まるで、小さな蟻の群れを踏みつぶすように。
 していることの意味さえ考えなければ、憎んでいる者達を薙ぎ倒すことは痛快さを覚える行為なのかもしれない。
(……酷なことだ)
 水面に浮かんだ気泡のような呟きは、何に対してだったろう。
 青年か。行為そのものか。それとも戦という歴史自体にか。
(まあ、考えても詮無いことよ。所詮、我も同じ。賢者にはなれぬ)
 人間如きに襲われれば腹も立つ、囚われ屈辱を与えられた怒りも消えたわけではないから帝国兵など蹴散らしてやりたいとも思う。彼らが己の炎で焼き払われ逃げ惑う光景は、胸がすく。
 人間より遙かに神格の高い竜種なればこそ、それほど胸も痛まない。本来、竜にとっては人間など、まさしく蟻に等しい存在でしかないのだ。
 ――だとしても。
 黒髪の青年が次に『伝えろ』と送ってよこした言葉に、紅竜は眉を顰めざるを得なかった。『断る』と言いかけたが、青年は黒く沈むような色合いに蒼い瞳を閃かせただけで、威圧してくる。
(……人間風情が)
 忌々しいと思いつつ口を開く己を、どうかしていると竜は思った。
「カイムからの伝言ぞ。何、おぬしらにも少々の獲物は残して置いてやろうから、散歩のつもりで安心して剣を携え、やつらの首を狩るに励め、と」
 何故、こういちいち煽るような物言いをするのか。
 闘うのは良い。だが、無駄に残虐を装う必要などないではないか、と思うのだ。
『いい加減にせんか馬鹿者』と密かに思念を飛ばしたが、黒髪の青年は何処吹く風だった。
 だが、この伝言には意外な効果があったようだ。遠巻きに不安そうな視線を送っていた兵士達が、一様に安堵した表情になる。
「何を仰います、カイム王子」
 老将をはじめとする歴戦の武人達は、剣柄を叩いて太く笑った。
「いくら何でも、少々では物足りませんな。ぜひ適当に手を抜いて頂き、我らにも武勇の機会を与えて頂きたい」
 心得たように、隊長格の面々が青年に合わせる。余裕を装い振る舞う彼らの空気は、部隊の志気を高めるのに充分に役だったようだった。
(なるほど)
 人間とはこういうやり方で意気を高め合ったりできるものなのか、と紅竜は呆れ混じりに納得する。カイムのこれが計算なのか本心なのかは微妙なところだが。
 老将がひそりと青年に目礼をする。感謝とも、謝罪ともつかぬ仕草だった。
 皆、カイムに調子を合わせることはしても、共に行くとは口にしない。
 むろん共に行きたいと願ったとしても、無理な話だ。もはやこの部隊には力がない。その事を、誰もが痛いほど承知していた。生き残った者で傷兵と女神を護るのが精一杯なのだ。
 カイムと紅竜に最前線を頼むしか道はなく、であれば竜の炎の巻き添えにならないよう、あるいは足手まといにならぬよう、後方へ下がっておくことが最善なのだった。
 イウヴァルトはほっとしたようだ。これをキリとばかりに手を打って、「さあ出発だ! 急げ!」と号令を掛ける。
 その向こうから陽炎のように佇んでいる女神が、じっと兄を見詰めていた。
 カイムが気付き、僅かな逡巡の後、近寄っていって妹の肩を労るように撫でた。幾分、表情が柔らかい。
 行ってくる、と唇が動く。
 妹姫は人形のような顔に、儚い微笑みを浮かべた。そしておずおずと兄の腕に手を掛ける。後ろからは赤毛の青年が歩み寄ってきていた。
「兄さん、イウヴァルトも、……どうか私のためにあまり無理はなさいませんよう」
 カイムは頷き、微かに笑む。
「気をつけて、イウヴァルトに護られておれ、だそうだ」
 思念の頼みに応じて竜が伝えると、姫はそっと頷いた。「まかせておけ」とイウヴァルトが胸を張る。
「頼んだぞ、カイム」
 見送りの言葉に、黒髪の青年は片手を軽く挙げて応えた。
 やっと決まったか、と紅竜は吐息をついて翼を開く。その背に近づきながら、青年が紅竜に明瞭な思念を送ってきた。
『弓兵に気をつけろよ。やつらの弓の威力は馬鹿にできん』
 さばけた口調だった。紅竜は内心で肩を竦め、呆れたように言い返す。
『おぬしこそ、あやつらに狙われるたびに我の背からいきなり飛び降りるのをやめよ。いい加減無謀ぞ』
『斬ったほうが早い』
 しれっと言い返してくる契約者に、紅竜は天を仰ぐ。
『馬鹿は死んでみぬと治らぬか』
『どうだかな。死んだことにも気付かないのが本物の馬鹿だ』
『……嫌な屁理屈を最もらしく説くでないわ』
 嘆息する紅竜の背に、青年が身軽く跨った。紅竜が首を捻り、振り返ると真っ直ぐに見てくる蒼い瞳と視線が合う。その目の奥に、強くたわむことのない意志が見えた。
 と、――ふと紅竜は刺すような視線を感じ、その方向を探った。
(……?)
 視線の主は女神であり、その事実に紅竜は少なからず驚いた。彼女の細い面はすぐに伏せられ、周囲の誰も気づきはしなかったろうが、竜に誤魔化しは通用しない。
(……なるほどな)
 紅竜は目を細め、やはり何事もなかったように空を見る。
 姫君の瞳は、初めて見る昏いかぎろいを宿して紅竜を見詰めていた。
 装ったような人形めいた表情ではない。生きた表情。大変に人間らしい感情に満ちた顔――それは、煮えるような嫉妬の表情だった。
 竜は、一瞬で色々な事情が腑に落ちた。
 彼女が紅竜に嫉妬の念を抱く原因など、ひとつしかない。黒髪の契約者だ。
 女神はずっと彼を目で追っていた――今も。押し潜めた強い感情の籠もる眼差しには、竜でなくともいつか誰かが気付いてしまうような熱がある。
 彼女のそれは、妹が兄を追う目ではなかった。
 女が男を恋う目だ。
(カイムは)
 恐らく気付いているのだろう。だから視線を逸らすのだ。
 そして幼馴染みでもある元婚約者の青年に気を遣っている、というわけだ。
(……憐れな)
 紅竜は嘘偽り無く、女神を気の毒に思った。
 自分とはなかなか視線を合わそうとしない兄が、竜の目は真っ直ぐに見る。それだけで竜に嫉妬の念を抱いてしまうほど、女神としての自分と実兄の間には隔たりがあると、彼女はそう思っているのだろう。
 女神は人柱だ。どのような幸せをも放棄し、ただ痛みに絶え世界のために祈り続けることを要求される。特に、女神の役を担うのが人間族であった場合、彼女達が迎える運命は過酷で悲劇そのものだ。
 人間の脆弱な肉体への、封印の負荷は大きい。
 器に依存する人間の魂は遠からず軋み、疲弊しきって壊れていく。寿命の半分にも満たないうちに、皆、器も魂も襤褸のように擦り切れた状態で死んでいくのだ。
 軋みゆく彼女の魂が最終的に望んでいるのが、実兄の、男としての愛であるなら、それは何か物悲しいものとして紅竜の心に響いた。
 何故なら、それは二重の意味で許されぬ禁忌だ。近親者への恋情、という禁忌と、異性交渉の許されぬ女神の恋情、という禁忌。
 果たして、彼女にとってはどちらがより重い禁忌なのだろう。
(……無事について参れよ)
 紅竜は胸の内で女神に語りかけ、ばさりと大きく翼をはためかせた。
 鮮やかな緋色が空に舞い上がり、おお、というどよめきが部隊のあちこちから上がる。
「……ドラゴンが人間との契約に応じるとはな。神話の再来だ」という赤毛の青年の呟きが、見送りの言葉となった。

 空を駆り、翼で力強く風を叩く。
 青年は気持ちよさそうに風を浴びながら、眼下を平然と覗き込んでいたが、やがて、
『居るな』
 と、小さく呟いた。
 紅竜もその半瞬前には気付いて、すぐ翼の音も小さく中空の一つ場所に羽ばたき、控える。
 生い茂る緑の樹海の隙間に、ちらちらと鎧が反射しているのが見えた。
『……随分な規模の軍勢だな』
『殺し甲斐があっていい』
 思念には、如何にもにやりと笑む嫌な風情があって、紅竜は思わず振り返った。
『おぬし、エルフ達の救済に行くのか、それともあやつらを殺しに行くのか、どちらだ?』
 問いかけてから後悔した。何と無益な質問だったろう。
 黒髪の青年は、そんな竜を真っ直ぐに見詰め、ややあって笑みを深めた。
『帝国の奴らを殺せるなら、どちらだろうと同じ事だな』
 ――俺にとっては。
 そう付け加えてから、『では、逆にお前に聞きたい』と青年は言った。
『殺したいから殺すのと、救うために殺すのと、どこが違う? 自分の都合で殺すのは罪か。では、誰かのために殺すのなら、それは仕方がないと許されるのか? 個人の感情で殺すのは悪徳でも、国の為なら正義か。いずれにせよ、相手を殺すことに変わりはないというのに』
 黒髪の青年からはいつしか表情が失われていた。蒼い瞳だけが、言い知れぬ深さで竜を見ている。
『戦だから。国のためだから。民衆のためだから。思想のためだから。救済だから。そんなものは所詮、言い訳でしかない。承知しながら、その大義名分とやらに乗っているのは、俺自身が楽だからだ』
 青年の瞳は昏い。夕闇に溶け墜ちていくような、静謐で絶望的な昏さだった。
『お前が俺の思念を読めるというのならドラゴン、俺はお前に飾る気はない。……俺は英雄でも武人でもなく、戦士ですらない。やつらを殺せることにこの上もなく喜びを感じている、ただの殺戮者だ』
 青年はそう言うと、『では行くか』と何事も無かったかのように紅竜を促したのだった。





(10.6.28~29)


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