第三章 柱はみっつ |
エルフの里は、紅竜の聞いた『声』の通り、惨い有り様になっていた。 そもそも里の周囲の森を、まるで湧いた虫のごとくに帝国軍が取り囲んでいた時から、懸念が正しかったことは証明されていたのだ。 時すでに遅い――おそらくは、もう。 紅竜の重い託宣の通り、帝国兵は進軍していくところではなく、帰投して来るところだった。 その帝国軍を、ほぼカイムと紅竜のみで焼き払い、薙ぎ払った。 残党には背後に続く連合部隊が追い打ちをかけた。一兵たりとも逃さず殺せ、という黒髪の青年の苛烈な指示通り、森の中には帝国軍兵士の屍が累々と横たわっており、文字通り死の森となっている。 森とエルフの里を隔てるように流れている河は朱に染まっていたが、これは帝国兵の血ばかりではない。その多くは、川べりに浮かぶ、エルフ達の変わり果てた無惨な遺体から流れ出たものだった。 帝国兵は里を襲撃後、焼き討ちにしたらしく、そこかしこが未だ燻っており、石畳も崩れた家々も何もかもが炎熱に喘いでいた。 肉の焼けこげる匂いが、いがらっぽく肺に忍び込み、辿り着いた連合兵士達の胸をむかつかせる。 紅竜は忌まわしげに口を噤み、幾多の無惨な戦場を渡り歩いてきた老将達でさえ、吐き捨てるように呻いた。 里にいたのは兵士ではない。市井のエルフ達だ。抵抗の痕跡も見られない。ここで行われたのは戦ではなく、ただの一方的な虐殺だった。 最も、彼らがその手で生み出してきた背後の森の光景と、結果としてどこが違うのか、と問われれば皆、一様に視線を逸らした事だろう。曖昧な意識から生じる罪悪感の差異によってもたらされるものは、救いか、それとも逃避か。 死に塗り込められた荒廃のなかで、頬から喉まで返り血に染め、独り背を伸ばし飄然と立っていたのは黒髪の契約者だけだった。目の前の光景にも背後の光景にも、感じ入った様子はない。 ガシャリと音を立てて、背中の鞘に剣を仕舞い、カイムは短く息を吐いた。 「生き残りを捜せ。帝国兵は見つけ次第、首を刎ねよ」 間髪入れずに紅竜が青年の命を告げると、我に返ったように兵達が三人づつ組を作り里内へと散っていく。 赤毛の青年は目の前の惨状に、まともに動くことも出来ないようだった。よろよろと頽れると膝をつき、あらぬほうを見詰めたまま譫言のように「こんなのは嘘だ、悪い夢だ」と繰り返している。僕はどうすればいいの、という幼児じみた小さな呪詛が混ざり込むのを、竜は聞いた。 女神である姫のほうが元婚約者の青年の背を撫で慰めているのを見やり、紅竜は内心で鼻を鳴らす。 (案外、脆い) 戦場には向かぬ、か。 伝わる筈のない呟きが聞こえたかのように、カイムは鞭のような視線を閃かせて紅竜を見た。 思念の怒気をぶつけられ、紅竜はやれやれと明後日を見る。こんな時ばかり、察しの良い青年だ。 カイムは指示を投げ付け『さっさと伝えろ』と乱暴な思念を寄越す。『調子に乗るでないわ、小僧』と思念で応えて置いて、竜は口を開いた。 「残りの者は、万が一に備えよ。エルフの生き残りが居るようなら怪我の手当てと保護を」 「は!」 青年の周囲に控えていた兵達も動く。もはや、竜の言葉はそのままカイムの言葉として受け入れられているようだ。 いや――この混迷する状況のなか、確固たる指示を下してくれる相手ならば、それがカイムであろうと竜であろうとどうでもいい、と思っているのかもしれなかった。 「駄目です」と四十絡みの厳つい身体をした連隊長のひとりが、疲れたように報告してきたのは、半刻も経たないうちだった。 どの連隊長も難しく険しい顔をしている。部下に、後方へ下がり休息をとるように言い置き、皆がカイムの元へ集まり声を潜めた。 「エルフ達の生存は確認できません。一箇所だけ周囲が焼け落ち炎上中で、先に進むことが出来ませんでした。そこだけは未確認ですが……」 ですが、とさしもの屈強な男が髭の下の分厚い唇を歪ませ、苦り切った様子で告げた。 「……もはや絶望、かと」 「そもそも、死体の数が足らないように思うのですが如何か」 後を引き取り、多少若い顔立ちの男が口を開く。煤に汚れた顔は元々浅黒い。南方の海上小国の出身の武人だ。 「死体の数、だと?」 怪訝そうに尋ね返す紅竜に、武人は怯むこともなく、竜の琥珀色の目を見返す。 「そうです。私は寡聞にしてこの里にどれほどの数のエルフ族が暮らしていたのかなど知りませんが、建物の数、広場、市場の規模、そういうものに対してどうにも遺体の数が、少なすぎるように思うのです。……諸卿らは気付かなかったか」 憂慮する表情の武人に見回され、各々が「言われてみれば、確かに」と視線を交わして唸った。 里を流れる川のほうへ調べに行っていた老将が、一層声を落とした。 「奇妙と言えばもうひとつ」 低くてもよく響くその声に、不吉なものを感じて皆が黙る。 「川の、橋のある淀みの辺りが惨いことになっておりました。いくつものエルフ達の遺体が引っかかり流れ着いておったのですが……遺体にはすべて、何らかの目的を持って切り刻まれた、痕跡が」 しん、と沈黙が落ちた。困惑と混乱の入り交じった沈黙だ。 里は剣をもった兵士達に蹂躙されたのだから、遺体に斬られた後があることなど当たり前だ。だが、襲撃したのが帝国兵ということを考えると、これは少し異様な事態だった。 老将の声には押さえ込まれた怖れがある。 「いま少し具体的に聞かせよ」 「は」 促した紅竜に向かい、額の汗を拭いながら老将は続けた。 「つまり、殺すことだけが目的ではないように思われるほど、遺体が傷つけられていたのです。火にまかれて、あるいは傷を負わされて、川へと逃げこんで来た者達のようには見えませぬ。恐らくは帝国兵どもに連れて行かれ、そこで……意図的に切り刻まれたのではないかと」 「……何のためにだ」 掠れた声で、髭の武人が問う。みな戸惑ったように互いの顔を見合わせた。 彼らの困惑も道理だった。 これが常の戦の相手であれば「おのれ非道な真似を!」と憤れば仕舞いの話だが、相手が帝国兵では、憤りよりもまず不気味さが先に立ってしまう。 彼ら帝国兵の闘い方にはいくつかの特徴がある。 その最たるものが、彼らの様子が非常に機械的である、という事実だ。 戦場での彼らからは、人間なら当然感じるであろう感情の動きがまったく読みとれない。 怒り、恐怖、焦り、絶望、高揚、殺意――そういったものが表に現れないのだ。 契約以降、なし崩しに闘いに加わる羽目になっている紅竜にも、その異様さは伝わってくる。何しろ竜の翼に頭上を覆われても、彼らは怖れる素振りさえない。無感動に見上げ剣を振るい、正確無比に弓をつがえ、淡々と竜の炎に巻かれていく。避けよう防ごう、という様子は見えるが、死に直面した者が発する恐怖や混乱などが見受けられないのだ。 その仲間の死体を踏み越えるようにして、ざわざわと新たな兵が押し寄せてくる有り様は薄気味悪いの一言につきる。まるで死ぬことを怖れていないかのようだった。 そんな風だから、彼らは倒れ伏した者にあまり興味を抱かない。動く敵にはとどめを、動かない者は敵味方の別なく放置、と誰かに決められ命じられているかのようだ。 そのあまりの絡繰り人形振りに、よからぬ魔術の強制力を行使されているのではないかと内心で疑っている紅竜だったが、確証はないので口を噤んでいた。そもそもあれだけの人数を操る魔術を使うことなど、人間には不可能なのだ。裏に何があるか分からないが、迂闊な結論を出すには早計すぎた。 いずれにせよ帝国兵が、戦場で血に酔って、あるいは残虐な愉しみのために、相手を切り刻むなどという話は聞いたことがない。良くも悪くも、彼らにはそういう人間臭いところが抜けている。 とすれば――。 「何か、目的が」 「無論そうだろう。だが何のためだ」 「見当もつきませんな」 ざわざわと顔を見合わせる面々から、つと黒髪の契約者が視線を竜に向けた。 『分かるか』 思念が届く。まるで分かっているのだろう、と問うような風情だった。こういう直截で明瞭な青年の思考を、竜は嫌いではない。 『ふん。想像で、ならな。おそらくは……』 そこでふと、紅竜の脳裏に声が届いた。 聞こえるか、という呼びかけは、どうやら契約者の能力を頼りに全方位に飛ばされているらしかった。 思念での会話を途切れさせ、天に向かって頭を上げた竜を青年が注視する。 どうした、と怪訝そうに首を傾げる青年に、『少しは自分で聞く努力をせんか』と言い置いて、紅竜は声に思念で応えた。 『何用か』 『おお、聞こえた者がおるか。ありがたい。私は神官長ヴェルドレである』 ほう、と紅竜は目を細めた。神官長とは一般には封印の儀式を司る祭祀役の長のことを言う。 『あなたがどなたかは存ぜぬが、今、女神がどちらにお出でか、分かるだろうか。封印の神殿があちこち不穏な翳りを見せ始めている。我らは早急に女神の保護をせねばならぬ』 初老の男の声だった。 『遅い』 ぼそりと竜の思念に割り込んで毒づいた青年を、紅竜の思念が『聞こえてしまうぞ』と小突く。まあ気持ちは判らぬでもない。 『聞けば、女神が御座した城がおちたと言う。だが、帝国の手に渡ったという様子もない。女神の行方を探しておるのだ。声の中継をしてくださるだけでも良い。力をお貸し願えまいか』 紅竜は一瞬、黒髪の青年を見た。視線が合う。 『おぬしが話すか』という問いに、青年は肩を竦めた。 『まだ慣れん。任せる』 紅竜は神官長を名乗る男と必要なだけのやり取りをした。面倒なので己の正体は伏せる。契約者同士ならば種族を問わず思念での会話をすることが出来るが、相手の容姿や種別までは分からないのが普通だ。 遠話を終えると、紅竜は視線を取り巻く人々へと戻し、口を開いた。 「神官長ヴェルドレから声が来た」 じっと竜を見守っていた兵達からどよめきが上がる。ヴェルドレという名前に、素早い反応をしたのはイウヴァルトだった。 「ヴェルドレだって?」 咳き込むように「神官長のヴェルドレ殿か!」と尋ねてくる。 (急に元気が出よったな) 呆れ半分に紅竜が肯定すると、女神の娘が近寄って来て竜を見上げた。白い頬にそれでも僅かな安堵の色が見える。 「彼は、いま何処に?」 細い声には希望が滲んでいた。透けるような肌に温もりが浮かぶ様は美しかった。女神のこうした姿は、兵達に安堵を伝播させていく。 紅竜は首をもたげ、努めて柔らかい声で告げた。 「神殿巡礼中で砂漠にいる。砂漠の神殿から最も近い連合の駐屯地だ。異常事態を危惧して、おぬしの保護を申し出てきた。……早急に向かうが良い」 娘が胸に手を当てて吐息をつく。周囲から「おお」「助かった」と声があがった。 砂漠の駐屯地には連合の部隊が配置されている。そこに神官長が来ているということは、少なくとも護衛の部隊も合流している筈であるから、守りはより堅固なものになっているだろう。 カイムはひとつ頷くと、紅竜を見てきた。兵への伝令が簡潔に思念で伝えられる。 (こういう所は武人だな) しかも優秀な部類だ。 カイムの伝令には、無駄な迷いやぶれがない。兵達に不安の入り込む隙を与えないコツを心得ているのだ。この辺り、兵隊暮らしの経験というよりも、世継ぎとして受けただろう教育の賜物かもしれない――むろん、本人にその資質があることが前提だろうが。 「カイムよりの命だ。すぐに砂漠の駐屯地へ向け移動。駐留軍と合流する。各連隊長は兵を整え編成の見直しをせよ。地理兵は急ぎ、休憩を最小限に押さえ交戦を避けて砂漠まで最短で抜けられる路の割り出しを」 「はッ」 「御意」 「我らは残る」 「は、……は?」 え、という顔をした各人を見渡し、竜は続けた。 「カイムが少し里を調べたいと言うておる。先程の件が引っかかるそうだ。あやつらの不審な行動の目的が、仮に封印に関することであれば、放置すれば後々面倒なことになりかねん」 一気に場が緊張した。確かに、という声が聞こえる。 「我らふたりであれば、用事が済み次第すぐそちらに追いつけよう。それと、帝国空軍がどうした理由か魔獣を手なずけておる」 紅竜自身からの忠告だった。 「上空からの監視に注意を怠らぬことだ。……ふむ、カイムが、鎧兜を最低限に留め後は捨て置け、と言うておる。身につける分は泥で汚し、陽の反射を出来る限り防ぐようにと。それが良いだろう。暫くは月も明るかろう、夜でも油断せぬことだ」 出来れば剣も滅多なことで抜かぬ方がいい、と竜が言葉を継ぐと、彼らは深々と返礼し、すぐに散った。 「カイム」 イウヴァルトが傍らへ寄ってくる。赤毛の青年の隣には、寄り添うように女神が居た。 「……すまん」 ばつの悪そうな声は、視線を逸らせたまま発せられた。 ややあってカイムの手がイウヴァルトの肩を軽く叩く。気にするな、という仕草に黒髪の青年の気遣いが見えた。 (この二人にはそうして接するというわけか) 紅竜はひそりと思う。 赤毛の青年は自分に寄り添う娘に向かって項垂れた。 「すまない、フリアエ。俺ごときでは、やはりお前を守りきれないな」 「イウヴァルト」 娘の手がそっと元許嫁の手を引き、握る。 「あなたの歌に、私は癒されます」 この手は、と娘が小さく呟いて、イウヴァルトの手を握ったまま撫でた。 「私をちゃんと守ってくださっています」 それはきっと、心を守る、という意味なのだろう。娘が見上げて微かに笑んだ。嘘偽りではない、そこには情がある。女神が心で求めている面影がどこにあるにせよ、赤毛の青年に向ける労りや愛情は本物なのだ。 だがイウヴァルトはその手をぐっと握って引き、苦々しく面を歪めた。 「歌など……! 俺、は」 女神の頭越しに、赤毛の青年がカイムを見た。その苦悩に満ちた、悲鳴のような視線。 「俺は、力が欲しい……!」 お前のような、という言葉が聞こえるかのようだった。 二人の視線がぶつかったが、逸らしたのは黒髪の契約者のほうが先だ。 身の縮むような空気が訪れたが、女神が面を伏せ、もう一方の手でそっと兄の手を取り引くと、緊張は解ける。 カイムは我に返ったように妹から手を引こうとした。見詰めてくる娘の視線に、『お前の手が汚れる』と唇が動く。青年の爪の先は赤黒く染まり、強張っていた。 「かまいません」 珍しく、女神の声に感情が揺れる。彼女は両の手で、それぞれ兄と元許嫁の青年との手を取って握った。 決して強くはないだろう力だが、カイムもイウヴァルトもされるがままだ。 娘がぽつぽつと歩く。あてがある様子もない。ただ里と竜に背を向け、森を見ず、自分の内だけを見詰めるように数歩。 青年達は何も言わず、抗うこともどこへ行くのかと尋ねることもせず、娘に合わせて歩を進める。 紅竜はじっとそれを見守った。 それほど距離があいたわけではない。竜の視力と聴力は人間を遙かに上回る。例え森の外れ近くまで離れたとしても、竜には障害にならなかったろう。 だがその距離は心の距離だ。遠い風景を見るように、紅竜は小さな人間達を目で追った。 やがて立ち止まり、女神はひっそりと息をつく。 「……よく、こうして歩きました」 儚い娘の声に、イウヴァルトが微かに吐息をつき、遠い目になった。 「そうだな。よくこうやって三人で庭園を歩いた。……なあ、カイム」 娘の頭越しに二度目にカイムへと投げかけられた視線は、ずいぶんと柔らかな苦笑いだった。 黒髪の青年は微かに頷いただけだ。 そのまま三人はじっと言葉のないままに、それぞれ何処かを見詰て立ちつくす。 つかの間の静寂、のように思えた。 実際には、そんな筈はない。 遠くからは兵達が呼び交わす声が聞こえてくる。川に朱の水が流れていく音、炎が爆ぜるような音、炭化した何かが崩れ落ちるような音、鎧がぶつかり合う音、それら全てが混ざり合って戦跡を埋めている。 彼ら三人が立っているのは平穏な城の中庭ではない。出来上がったばかりの死が大地を覆う、殺伐とした荒廃のただなかだ。 だが、その中でひっそりと手を繋いで立ちつくす三人の背には、余人の入り込む隙のない静謐さがあった。 ふと、紅竜は傍らに人の気配が寄るのを感じ、視線を向ける。 「……不憫な御子たちだ」 竜の陰に潜むように現れたのは、あの老将だった。 紅竜は答えない。老将も特に竜からの応えを求めているわけではないようだった。まるで独り言のように小さく呟く。 「よく、ああして三人で遊んでおられた。イウヴァルト殿も含めて、まるで本当の兄妹のように過ごしていた御子たちだった」 ごく平凡な老爺にしか思えぬ、嗄れた声。 「繰り言かもしれぬ。だが、国があのような形で滅ばなければ、と今でも思う。フリアエ様が女神になどならなければ。帝国があのような……悪辣な手を使って侵略をしてこなければ。……せめて、先代がご無事でさえあったなら」 僅かに肩を落とし俯く彼の背に年齢が見えた。紅竜は何も言わない。竜である己がこの老人に対してかける言葉など、ないように思えたからだ。 「儂は帝国が憎い。憎んでも憎み切れぬ。この目には、今でもあの日のむごたらしい有り様がありありと焼き付いておる。どうして許すことができよう。やつらなど地獄の業火にやかれ永劫の闇に喰われればよいのだ……!」 紅竜は黙ったまま老将を見詰め下ろした。 それを我に伝えてどうなろうというのだ、と思わぬでもなかったが、彼にとっては意味があるのだろうと好きにさせておく。 後に、この老将の言葉が己のなかに思いも寄らぬ波紋を起こすことなど、竜は知る由もない。 「だが、我らにはカイム様がいる」 老将の声の色合いが少しだけ変わり、紅竜は首を傾げた。 「カイム様こそが最後の望みだ。あの方はお強くなられた。帝国を滅ぼしたあかつきには、カールレオンの再興も叶おう」 「……」 何か思いも寄らぬ言葉を聞かされた気がして、紅竜は言葉を失った。 「国が再び戻れば、もうカイム様は戦わずともすむ。あの方の今の力をもってすれば、諸国もそうそう簡単に我が国に手を伸ばそうとはするまい。力があれば神殿へフリアエ様の女神の代替わりを要求することも出来る。そうすれば、イウヴァルト殿とフリアエ様も元のように幸せにおなりだ」 ――眩暈がするような御伽噺だ、と竜は思う。 (開いた口が塞がらぬ、とはこのことだな) だが、この老人は心からそれを信じているのだ。――いや、恐らくはその御伽噺に縋っているのだ。 「ドラゴンよ。くれぐれも、カイム様を頼む。あの方は、我らカールレオンの民の最後の望みなのだ」 つまり言いたかったのはこれか、と紅竜は思った。視線を向けられ、何と返答したものか迷う。 愚劣な、と嘲ることも出来た。くだらぬと一蹴することもできた。不躾なと怒ることも、知ったことかと突き放すことも――。 だが。 「……くどい。幾度同じことを言わせる気だ」 辛うじて紅竜が口にしたのはそのような言葉だった。ふいと首を背けた竜に、老将が笑む気配があった。 「そうだな。すまぬ。年寄りの繰り言だった」 (分からぬ生き物よな) 佇む三人の背へと近づいていく老人を見送りながら、紅竜はそう思う。 (愛おしみながら、戦火へと追いやるか) 戦わずに済むためと称して、戦うことを勧めるのか。それは彼のなかで矛盾しないのか。間違いだと決めつけるつもりはないが、どうにもすっきりとしない思いを味わう。 結局のところ、と、竜は目の前の光景を眺めながら、己の契約者の後ろ姿を追った。 (みな矛盾を抱えていく) 長い時を生きてきたとはいえ、眠りの季節を持つ種族であるから、紅竜が目を醒まして空を駆けた時間は実際その半分に満たない。 意識して人間を眺めた時間など、更に少なかった。 竜は神格からいけば生き物の最高位だ。神に愛された獣、とさえ呼ばれている。 その神格故に、竜族は普段人間など見向きもしない。 人間は、竜にとって踏みつぶして構わぬ存在であり、増えすぎれば適度に駆逐してなんの痛痒もない存在である。まるで本能と種族の記憶のなかに、人間とは滅びを招きこむ忌まわしきものと刷り込まれているかのようだ。 が、時折、紅竜の心を過ぎる思いがある。 人間は、なるほど確かに愚劣かもしれぬ。 だが、それならエルフはどうか。 品性の欠片もない悪口叩きの妖精族は。どこまでも己にしか興味を持たぬ精霊達は。――尊大で高慢な竜族はどうだ。 脳裏を掠めるそうした思考は、浮かぶ端から取るに足らない物として滑り落ちていく。滑り落ちていくことに、紅竜は苛立ちを覚えることがある。 もし、仮に、種族の持つ記憶と知識に反するような思考は、断ちきられてしまうように本能が働いているのだとしたら――。 (我らドラゴンとは一体、どのような種族だ) 矛盾は竜のなかにも存在するのだ。 それとも、紅竜がそのような矛盾を己の内に感じるのは、いまだ竜として未熟だからだろうか。一万年を過ごしたといっても、竜族にとっては若造呼ばわりされる程度の年月でしかない。だからなのだろうか。 「本当に、一緒にはいかないのか。カイム」 赤毛の青年の声が聞こえてくる。 老将は、どうやら出立の準備が整ったことを報せに来たものらしかった。 頷く黒髪の契約者に、「そうか」と一瞬目を伏せ、イウヴァルトは顔をあげる。 「カイム、お前、子どもの頃、良くやった遊びを覚えてるか」 懐かしむような顔でイウヴァルトが笑んだ。 「お前が勇敢な騎士。フリアエが魔物に浚われる姫。見事に救い出した騎士の戦い振りを、高名な吟遊詩人の俺が詩に歌う」 微かに、ほんとうに微かに、黒髪の青年の口元が笑みに溶けた。ああ、と肯定する唇に、赤毛の青年は続ける。 「だが、もう無邪気な子どもではない。俺はもう、騎士のお前の後ろで歌を歌うだけの役回りは御免だ。……フリアエの騎士は、俺だ」 女神の手を握りしめたまま、真っ直ぐに見詰めてくるイウヴァルトの視線を、カイムは黙って受け、「わかっている」という風に頷く。 唇が言葉を刻むが、それは音にはならなかった。カイムが背後の紅竜を振り返る。 「……フリアエはお前に任せる、そうだ」 竜は口を開いた。多少離れていても、声はよく通る。 「しっかりやれ」 らしくもなく励ましの言葉を口にしてから、まるで手向けの台詞だと紅竜は思った。 (人間は何と小さく儚い生き物だろう) ふと浮かんだそんな思いが心の奥底に沈んでいくのを、紅竜は静かに感じていた。 |
(10.7.9~10)
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