第四章 塔がよっつ




 天使を語ってはならない。
 天使を描いてはならない。
 天使を書いてはならない。
 天使を彫ってはならない。
 天使を歌ってはならない。

 天使の名を呼んではならない。

 ――なんだろう。この、胸の奥をやすりで引っ掻かれるような薄気味の悪い感覚は。


 部隊を見送った後、炎上中の建物を除けた紅竜は、黒髪の契約者とふたり、里の奥へと分け入った。
 竜と契約した時点で、人間でありながら炎に容易く焼かれることのない体を手にした青年だったが、炎熱を感じないわけではないから息苦しさは相当なものだろう。熱に喘ぎ悲鳴をあげて軋む里の有り様に辟易した顔だ。
 行けども行けども、生き残りなど居よう筈もない地獄のような光景を、くまなく見て駆ける。確かに遺体の数が少ないようだと、紅竜は思った。
 エルフの生き残りが居ないと確認した箇所は、紅竜が翼や尾を打ち振って建物を崩し、鎮火して回った。万が一、周囲の森に延焼でもすればおおごとだ。
 燃えている家々に平気で翼を突っ込む紅竜に、青年が一瞬目を向けたので、『竜の吐く炎ならばいざ知らず、並の炎ていどなら鱗が護る』と竜は応えた。
『まあ、鱗を持たぬおぬしはやめておけ』
 火の粉を跳ね、ちかちかと明るい紅玉のように光る鱗をじっと眺めていた青年は肩を竦めると、熱い瓦礫を黙々と蹴り除ける作業に戻った。
 そんな風にしてどれほどが経ったろう、いつくめかの石畳の広場で、帝国兵が己の血で刻んだらしい不吉な文言を見つけたのだ。

 ――天使の名を呼んではならない。
 ――天使の……

『なんだ、これは』
 声にして読み、言い知れぬおぞましさを感じて呻くように呟いた紅竜へ、黒髪の青年が視線を向けた。
 なんだこれは、と紅竜がもう一度口のなかで呟く。
 カイムは興味深げにその竜を見ていた。常ならばきっと彼のほうが『なんだこれは』と先に口にしたことだろう。確かに、青年はそう言葉にしかけたのだが、紅竜に先を越された恰好だった。
 もっとも紅竜は誰かに意味を問うたわけではない。ただ――。
(気分がすぐれぬ)
 悪寒に身を震わせる。頭のなかをやんわりとしたもので掻き回されているような不快感がこみ上げてきて、竜は小さく喘いだ。

 ――天使。

 見ず、問わず、口にせず、祈れ。
 いつだったろう。どこでだったろう。似たような言い回しを聞いた気がして、紅竜は一瞬目を瞑る。
 思い出せない。そもそも誰から聞いたのだったか。あるいは――最初から『知って』いるのか。
 具合が悪かった。喉に何かがつかえているようで、胸が靄る。
 ふと視線を感じて瞼を上げ、見ると、己が契約者がじっとこちらを見ていた。
『心あたりがあるのか』
 青年の思念は淡々としていた。特に詰問口調でもない。紅竜が『いいや』と呟くと、青年は『そうか』とだけ言って背を向けた。
 彼があっさりと引いたことが意外に思え、紅竜は目を瞬く。きつい目で追求してくるものかと予想していたのだが。
 血文字を刻んだらしい帝国兵の死体をつまらなそうに検分していたカイムは、『そういえば』と顔を上げた。
『エルフ達の遺体の件だが、あの時何か言いかけただろう。なんだ』
 ああ、と紅竜は、再び燻る家屋を引き倒す作業に戻りながら応える。
『エルフが何故、神殿の封印を司っているかおぬしは知っておるか』
『知らん』
 カイムは帝国兵の死体から離れ、燻る街の木々の枝を剣でうち払いながら更に奥へと進み始めた。
『あの種族は血に封じの力がある。封じと、解の両方だが。対魔に有効ゆえ、魔法封じにも効く、と言われておる』
 思念での会話は距離とは無関係なため、紅竜は崩す建物で契約者をうっかり埋めてしまわぬよう、後方へと下がった。生存者の探索は、契約者に任せる。
『例えば、精製し、術で高めたエルフの血ならば、神殿の封印を穢し破壊してしまうことも容易かろうな』
 紅竜の言葉に、遙か前方を歩いていた青年が瓦礫に脚をかけたまま振り返った。
 蒼い瞳が強張ったように竜を見詰めている。その色合いを見返しながら、紅竜は吐息をついた。
『普通なら神殿の守り番が総出で結界を張っている封印の神殿になど、近づくことさえ出来まい。だが、仮にその結界を穢すことが出来れば話は違ってくる。実行しようと思えば、精製し魔導の業で高める必要があるから、血は多く必要だろうが』
 エルフの血の持つ力についての知識は、実のところそれほど秘されているわけではない。魔術に通じる者ならば知っているのが常識だ。
 だが無論、知識があるからといって、常の者ならばそんなことまでして封印を汚そうなどと思わない。封印に手を出すことは世界の崩壊を意味するからだ。
 どのような悪徳も、手前勝手な利も、世界そのものが滅んでしまっては意味がない。
 故に、エルフの血がどれほど力を持とうと、根こそぎ浚って血を求めようなどとはしない――正気の者であれば。
 カイムは無言だった。血に濡れ、いまだに喉のあたりを朱に染めたまま、なお彼は流される血の話を黙って聞いていた。
『今のは、あくまで我の想像する可能性のひとつに過ぎぬぞ』
 紅竜が言うと、青年は『川のエルフ達は?』と尋ねてくる。
『さてな。エルフの血は潜在している力が強い。精製せずそのまま使っても、魔法封じくらいにはなろう。王家の神器の力も通用せぬ、というわけだな』
 口調が皮肉げな棘を含むのを、紅竜は止められない。
 あくまで可能性だと口にしながら、おそらくこの可能性が正しいことを竜も青年も朧気に悟っている。なんという唾棄すべき最低の行いか。
『まったくおぬしら人間の考えることときたら』
 蛮族以下、獣以下の屑だな。
 胸を突き上げるような厭わしい思いと怒りに、紅竜が吐き捨てるように嘲ると、青年は小さく息をつき、剣を担ぐと『全くだ』と嘯いた。そこには自嘲めいたものも他人事のような響きもない。ただ事実を認めただけといった風体で、カイムは背を向けて歩き出す。
 それきり暫くは会話もなく、黙々と互いに里内の探索に時間を費やした。

 虫の息の生存者を発見したのは、殆ど里外れの境界の森に近いあたりの民家だった。
 落ちた柱の影になっていたため、帝国兵の目を免れたのだろう。この辺りはあまり延焼も激しくはない。
 青年が躊躇いもせず柱を除け、そのエルフの娘の腕に手を掛ける。
 しっかりせよ、と紅竜が声をかけた。
 大丈夫かとは口に出来なかった。大丈夫である筈がない。右肩から鎖骨までが無惨に裂かれ、下半身からの出血も酷い。むしろよく今まで息があったというべきだ。
 黒髪の青年の手が蒼白な彼女の頬を拭うと、彼女の唇が動いた。指先が何かを求めるように地面を掻く。零れる言葉は吐息だけのもので、紅竜と契約者でなくては聞き取ることが出来なかったろう。
 彼女は「つれていかれた、みんな」と言った。
「どこへだ?」
 紅竜が問うと、彼女は虚ろな目でどこかを見ようとしている。
「きょうかい。てんし、天使のきょう」
 息をするのも苦痛なのだろう。彼女は頼りなくせいせいと呼吸を繰り返す。思念は弱く、伝えなくてはという使命感と意思の力だけで保っているのだ。
「天使の教会、か」
 意識してはっきりと繰り返すと、エルフは頷いた。通じたことの喜びか、口の端が笑みを浮かべようとして動く。
「きゅう、でん。みんな……渓谷、この近く」
「わかった」
 紅竜が請け合う。
「助かった。礼を言うぞ」
 柔らかく慰撫するような低い声に、エルフの娘はどんな救いを見たのだろう。死の縁で、彼女は奇蹟のように微笑んだ。ありがとう、とでも言うように、呆気なく事切れる。
 安堵は彼女の命にとっては致命傷だったろうか。けれどどのみち助かりはしなかったろう、と紅竜は静かに面を伏せた。
 と、カイムが指を伸ばして娘の瞼を閉ざしてやっているのが見える。
(おかしな奴)
 もう何度目になるか分からない感慨を紅竜は心に浮かべた。
 邪魔だとなれば怪我人でも蹴り除け、敵兵であれば容赦なく肉塊に変えて振り向きもしない青年なのに、一方でこうしてちゃんと死を悼む。
『近くの渓谷か。行くか? カイム』
 ああ、と青年は応えた。
『では我が偵察してこよう。目星がついたら戻るゆえ、それまで休んでおれ。ふたりで悪戯に彷徨いても、見つかりやすく、無駄な闘いになるだけだからな』
『無駄? 帝国兵を一兵でも多く殺せる機会が無駄か』
『馬鹿も大概にせい』
 うんざりした気分で紅竜は溜息をついた。
『またの機会に好きにしたらよかろう。今は体力の無駄だと言っている。そもそもここの片をつけたら、すぐと砂漠へ合流せねばならんのだぞ。どうせ戦は続く。いざという時に己の体が保たねば、妹やイウヴァルトはどうなる』
 流石に正論だと思ったのだろう、カイムは口を噤んだ。
 紅竜は腹立たしい思いで続ける。
『契約したとは言え、我もおぬしも不死身ではない。得た力を過信せぬことだ。我が偵察に行く。この辺りは炎も収まっておるから、その汚れた顔を上流で洗って、物陰で少し横になっておれ、良いな!』
 言うだけ言い、紅竜は羽ばたいた。むっつりと黙ったままの青年が見上げているのが見えたが、構わずに遙か高みへと舞い上がる。
 里から細く煙がたなびいている有り様を上空から見ると少しだけ気にはなったが、まあ問題はなかろう、と紅竜は首を振った。
 死の匂いを嗅ぎ付けて魔物がやって来ないとも限らないが、これだけエルフの血が流れては、それが結界となり里にまでは入れない。青年が熟睡していたとしても、襲われるようなことはないだろう。
 紅竜は眉を顰めるような思いで溜息をつきながら、上手く高みを飛んだ。それらしき建築物があれば気付くことが出来る、ギリギリの高度だ。
 程なく、それは見つかった。
 地表に『宮殿』を思わせるような建築物は見あたらなかったが、周囲に帝国軍の姿がある。不穏な淀みも感じられた。
 幾度か旋回し、帝国や魔物の姿と地形を見定めてから紅竜はとって返した。
 集中して思念を凝らしてもエルフ達の思念の波は聞き取れない。ということは強い感情や衝動のもとにないということだ。眠らされているのか、殺されてしまったか――しかし、血が目的であるならあっさりと全滅させてしまうことも考えにくい。命を奪ってしまえば、血の搾取はそれまでとなってしまう。
(どこかへ移されたか?)
 考えられることだった。だが、状況を確かめるためにも、いずれ教会へは行かねばならない。
(天使の教会か。巫山戯た名を)
 天使などうんざりだと紅竜は思った。
 里へととって返しながら、ふと思いついたように紅竜は森を越し、昨夜の水場へと向かう。そこで蔦葡萄の蔓を見かけたことを思い出したのだ。
 多少早いが、この時期なら熟した実もあるだろう。マツリカの香りもしていたから、自分のための食事も採れる。
 紅竜は水場の森の縁で、翼の中程にあるかぎ爪と口を器用に使い、目的のものを手に入れると、里へと戻った。

 黒髪の契約者は、崩れた煉瓦壁の陰でおとなしく横になっていたようだが、翼の音を聞くとすぐに身を起こした。
『眠れたか?』という紅竜の問いは、見事に無視されたが、これは青年が不機嫌だったせいというよりは、紅竜が咥えているわさわさとした緑の枝葉の束に絶句していたためらしい。
 面食らったように灰蒼の瞳を瞬かせる青年の前に、紅竜は鼻面で蔦葡萄の絡まった枝をより分けて置く。そうしながら言った。
『教会とやら、らしきものは見つけたぞ』
 別段、青年の反応など気に掛けるつもりはないし、食べないというならそれでも構わないと思っていた。
『宮殿だとは到底思えぬが、おそらくあの辺りだろう。食べたら行くとしよう』
『……お前は休まないのか』
『ドラゴンの体力のことなど気に掛けて貰わずとも結構だ』
 自分の前にはマツリカの枝葉と白い花を残し、顔を上げると、黒髪の契約者は葡萄の房を手に奇妙な表情をしていた。
『……なんだ。食べられぬものではなかろう。不服なら無理にとは言わぬ』
 紅竜の言葉に、青年は『いや』と曖昧に応え、葡萄を口へ運んだ。
 舌の先で潰したか、顔を顰めて呟く。
『酸いな』
『まだ時期が早いからな』
 顰め面などしていると、契約者もごく普通の青年に見える。言う割に黙々と食べ始めた青年を確認してから、紅竜はゆっくりと花と葉を食んだ。
 マツリカの花弁の、油分をたっぷりと含んだ滑らかな味は紅竜の好みだった。他のものでも構わないが、香りの良いこの花は格別生き返るような心地がする。
 毟っては飲み下す繰り返しに没頭していると、興がっているような思念が届いた。
『草食ドラゴンだったのか?』
『無礼な。獣扱いはやめよ』
 舌で口の端の花弁を舐め取って、紅竜は言う。好物を味わっているので、不躾な物言いにもそれほど腹は立たなかった。
『我らは雑食だ。だから、これはまあ……単に好みの問題だ』
『花を喰うのが好みか』
『……別に、果実でも構わぬが』
 要は油分を摂れれば良いのだ。体が欲した時に、必要なだけ。何から油分を摂るかはそれぞれの竜の好みによる。
 青年の表情にからかう色合いを見た気がしてむっとしかけた紅竜だったが、カイムにそのつもりはなかったらしい。
 ふうん、と目を細めると、彼は何とも表現し難い表情になる。
『なるほどな。道理で、お前の吐く息と炎は花の匂いがすると思った』
 口の端に微かな笑みが浮かんだと見えたのは、見間違いだったろうか。言われた言葉に、何故か紅竜は咄嗟の反応を返せなかった。
 固まったままの竜に、青年はすっかり平らげてしまった葡萄の芯を置いて剣を引き寄せる。
 視線が逸れたことに救われたような気分で『出発するか?』と紅竜が尋ねると、黒髪の契約者は剣を抱えて煉瓦塀に凭れ、『もう少し休む』と言って目を閉じた。
(……何だと言うのか)
 少々困惑した気分で紅竜は首を振り、残りの花を食んだ。
 扱いにくい契約者だと思う。先程まで、さっさと出発したくて急いていたというのに、今度はもう少し休むと言う。
(どうにも掴めぬ奴よな)
 戸惑うばかりの竜は、内心でしみじみと嘆息した。
 青年のその気紛れにも思える言動が、もしかすると紅竜の休む暇を気遣った故のことだったのではないか、と――。
 紅竜が思い至ったのは、ずっとずっと後のことだった。



(10.8.10)


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