第四章-2 塔がよっつ




 宮殿とも呼べぬようなその廃墟じみた場に辿り着いた時には、すでに夜も明けきっていた。
 朝靄は血臭がする。
 心なしか赤く染まって見えるそれに肺を病みそうで、紅竜はひっそりと吐息をついた。
 いつになく疲労を感じるのはどうしたわけだろう。戦の高揚の後の虚脱感からか、それとも相次ぐ闘いに早くも倦んできたせいだろうか。或いは、この――。
(天使か)
 天使の教会の宮殿、と教えられた場所の石造りの床には、またしてもあの文言が彫り込まれていた。
 ――天使の名を呼んではならない。
(まったく忌々しい)
 その文言を目にする度に、故無き焦燥にかられる心地がする。これが竜族の血に潜む、記憶の知らせというものだろうか。今までは気にしたこともなかったが、これほどまでに鬱陶しいと感じたのは初めてだった。
 血の記憶は、竜族にとって本来尊ぶべき誇りであり、本能の底に刷り込まれた種族の理の根幹とも呼べるものだ。それは時折意識の水面に波紋を広げ、竜として生きて行くに相応しい知識を与えてくれる。
 だが、この度のこれはどうだ。
 知識と呼ぶには余りにも曖昧な、預言めいた漠然たる不安。真意を掴もうと辿っても、在るのは混沌とした深淵だけだ。
 何故この文言にこれほど心を乱されるのか、紅竜には判らない。いっそ、こんな予感ならば要らぬと拒否したかった。
『一体、こいつらの目的は何だ』
 うんざりした様子の契約者が睨んでくるのを、紅竜はふんと鼻を鳴らしてあしらった。
『そんなもの、我が知るはずは無かろう。人間の考えることなど卑小すぎて想像もつかぬわ』
 勢い、口調がつけつけときついものになる。
 黒髪の契約者は苛々した気分を募らせたのか、舌打ちを一つすると剣の血糊を乱暴に払い、鞘に収めた。
 彼の足元には、袈裟懸けに斬り捨てられた司祭らしき衣装の男が転がっている。その男は幻影の魔術を使い、散々こちらを翻弄した挙げ句、エルフの血に染まった鎧の兵士達を山と繰り出してカイム達を手こずらせたのだ。
 嫌気が差すほど駆けずり回らされ、辿り着いた本拠地は、宮殿とは名ばかりの遺跡のような場所だった。屋根も、壁もない。ただ広く古い石造りの祭壇の床があり、奇妙に拗くれた柱と紋章の刻まれたレリーフが立ち並ぶ異様な所だ。
 当然のことながら、連れてこられたという捕虜のエルフ達は影もない。
 紅竜と青年に残ったのは徒労感だけだった。彼ら二人の精神力を削ぐのが目的だったと言われれば、立派に成功だったと言えるかもしれない。
 屠る敵兵が多ければ多いほど暗い愉悦に笑みを浮かべる青年にしても、斬ったところで手応え無く次々に現れては消える幻影の司祭には相当苛々していた。時折、紅竜に零れ届く思念の罵倒は、およそ王族とは言い難い俗たる代物だった。
(まったく、このような場所に何故あれほどの兵を置いておったのか)
 意図が掴めない。ここは軍事の拠点にも虜囚を置く収容所にも狭すぎる。何しろ建築物とも呼べないような、遺跡めいた場所だ。
 ただ、古い何かの波動は感じられる。
(考えられるとすれば、気脈のひとつであるという点か)
 おそらく、地の底に眠る太古の霊力を宿した場所なのだろう。
 そのような場所を『宮殿』などと呼び、何をしようとしていたのか、帝国の思惑など知る由もないが、いずれにせよあまり真っ当でない術の行使に耽っていたことは、想像に難くない。
『ともあれ、ここですべきことは終わった。エルフ達が連れ去られた場所はここではないようだ。一度、砂漠に向かったおぬしらの仲間と合流するが得策であろう』
『……』
 契約者は溜息でこれに応える。
 紅竜は青年の様子には頓着せず、思念でヴェルドレに呼びかけた。一度、思念の波長を捕らえてしまえば、相手を特定して呼びかけることができる。
 ――だが。
 繋がった時点から、その思念は乱れに乱れていた。
 乱雑な叫び、慌てた様な呼び声、混乱、困惑、怖れと、女神へ向けて繰り返されているらしい『出てきてはなりません』という懸命の制止。
 そしてそれは唐突にぷつりと途切れた。
『ヴェルドレ!』
 反射的に紅竜が呼びかけると、当の神官長ではなく青年が『どうした?』と答えた。
『声が途切れた。女神に危険が迫っているやもしれぬ。急ぎ、砂漠へ戻ったほうが良い』
 黒髪の青年の面が厳しく引き締まる。灰蒼の瞳が炯々と光って頷くと、紅竜の背にすぐと飛び乗った。
 翼があれば、砂漠まで駆けることなど造作もない。
 途中、魔物達と幾度か乱戦になったが、紅竜の吐く火球の前にあっという間に落ちていく。
『紅き翼を持つ我の炎に敵うと思ってか』
 竜が豪語する通り、その速さと火球の威力は帝国の空軍さえ凌いだ。単純に、契約したが故の力というわけではない。紅竜は、もともと力の強い竜なのだ。
 青年は無言で竜の背に居たが、紅竜の言葉に触発されたかのように、ふと思念が届く。
『そういえば、お前は赤いな』
 最速で駆け抜けざま火球を吐き、帝国の戦闘気球に大穴を開け、風を斬って反転する――その重力の最中に発するような台詞ではなかった。
 この黒髪の契約者は時々、とんでもなく図太い。
(いや、図太いのか馬鹿なのか大物なのか……)
『そんなことを気にしている場合か! 馬鹿もの、がッ』
 呆れ半分に怒鳴る。
 翼が一杯に大気を孕んで、バサリと大きく鳴った。天と地の境で内蔵が押し上げられるような浮遊感を味わっても、青年は平然としている。
『気になった。考えてみれば赤いドラゴンというのを、お前以外に見たことがない』
『後にせいッ』
『連中の目はどいつもこいつも赤いんだがな。あれも気になっている』
『……ッ、その件も後だッ』
 そんな場合か! と紅竜は後ろから追尾してくる砲弾を鮮やかにかわして、さらに二艇を炎に沈めた。ばらばらと雨のように人が脱出して落下傘を開くのが見えるが、そちらは紅竜が見て見ぬ振りをする。
 珍しくカイムも黙ったままだが、いずれ自分の剣の餌食が増えるだけだとでも考えているのかもしれない。
『あと三艇か。落としておくか』
 魔物達は振り切ってしまえば済むが、帝国軍は放置して後をつけられたら厄介だ。
 それに、この、連合軍には持ち得ない空の脅威を出来る限り削いで置くことは、戦略的に大きな意味があった。戦闘気球も浮遊戦艦も、そうそう簡単に建造補充はできない。ひとつ沈めれば、それだけ連合軍の戦いが楽になる。
 どちらも高速移動が出来ないため、対空砲弾塔を警戒して最前線には近寄ってこない。だから、歩兵騎兵戦が中心の戦場を、空から制圧されてしまう危険性は薄いのだが、これらは増援部隊の輸送と物資の補給を担っているため叩いておくに越したことはなかった。
『大体、おぬし達にはああいうものがないのか?』
『金と時間と人力がない』
 青年は肩を竦めてみせた。
 曰く、『連合ってやつの宿命だ』と。
 小国の連合であったがゆえに、どこの国がどれだけの資金と場所を負担するかの話し合いに手間取った。もともと一国でそのような強大な軍事力を持ち得ないからこその小国なのだ。
 迂闊に場所を提供すれば、敵軍の狙い撃ちにあう。資金を出せばそれだけ国力が下がる。全ての国で平等に負担を分配しようにも、そもそも各国の経済力が疎らときては、その配分をどうするかで一悶着だった。
 それでも最初は連合が優勢だった。帝国にしても、このような大型浮遊戦艦などそうそう何隻も保有してはいなかったし、魔物だの怪しげな術者だのが台頭してくることもなかったのだ。
 それがどうしたわけか、気付けば帝国軍は竜と魔物の軍勢を引きつれ、圧倒的物量で空を制覇し始め、戦況は呆気なく覆されてしまった。
 慌てて対抗しようにも、時すでに遅い。空の船を建造するための工場は、先手を打たれて軒並み焼き討ちに合い、多くの技術者の命が失われた。
『以来、後手後手でな』
 目前で、最後の一艇が巨大な火の塊と化して散っていくのを、瞬きもせず見詰めながら、青年は淡々と語る。
『なるほど』
 よくもまあ今まで無事で生き残ってこれたな、と紅竜は思った。
 空を、本当の意味で制圧されたらまず敵わない。放っておけば、このままジリジリと連合軍が押されていく一方だったろう。
 竜と契約者がひとくみ連合に加わることでどれほど戦況が変わるかは知らないが、出来る限りやってみるしかない、と紅竜は思う。
 何しろ契約した相手が、この青年だったのだから。
(まあ覚悟ならば、疾うに出来ている)
『あとは雑魚ばかりだ。振り切るぞ』
 竜の思念に青年は頷くと、紅竜の首に身を伏せ姿勢を低くした。


「兄さん……!」
 赤茶けた岩場の道に累々と横たわる兵の亡骸と血痕。
 そこに現れて佇む娘は、淡々として可憐だった。ひらりと涙のように翻る白い衣服の裾が、場違いな花のようだ。
 穢されることのない清楚さは、どこか空恐ろしいものに写る。
 娘は身を震わせながらまっすぐに兄の腕へと倒れ込んだ。彼女の感じている恐怖は本物である筈なのに、常に非現実感がともなっているのは何故だろう。
 虚ろな声の響きのせいか。この世ならぬものを見詰めている視線のせいか。
 それとも、超然としてあまり動かない表情のせいだろうか。
(いや、……こちらの罪悪感のゆえ、か)
 紅竜は思い、ゆっくりと瞬いた。
 人柱としての娘の存在は、心あるものを何某か落ち着かない気分にさせる。多分、竜であっても例外ではないのだ。支えられた世界の下に住まう、という点では、人も竜も魔も違いはないのだから。
 契約者の青年は妹の身をしっかりと抱き留め、口の端に微かな笑みを浮かべた。薄青い瞳が安堵に緩む。彼がそんな表情を向けるのは、ただ、妹姫と赤毛の幼馴染みにだけだ。
 青年の手が妹の髪を撫で、唇が「無事で良かった」と動いた。
 それを娘は正確に読みとって頷く。
「兄さんも、よくご無事で」
「酷い有り様だな」
 紅竜が呟くと、娘の瞳が曇り、目が伏せられた。
「はい」
「どうにか、半数は長らえました」
 そこで初めて、件の老将が口を差し挟んだ。今し方まで、彼は無事な兵を助け起こし、生き残りの兵への指示と傷兵の介抱にあたっていたのだ。主だった将達に後を任せ身を起こすと、二、三人の隊長とともに竜と青年のほうへ寄ってくる。
 兵達はみな一様に土気色の疲弊しきった表情で、部隊を整えようとしていた。その様子は、踏みにじられて尚、隊列を戻そうとする蟻の群のように見える。踏みつぶされても薙ぎ倒されても、もはや立ち上がることにしか目的を見いだせないかのような暗い目をして、横たわる盟友達の亡骸に黙祷していた。
 苦痛と呪詛の呻き声に満ちたその様子を、紅竜はざっと見渡し、
「イウヴァルトとヴェルドレは……どうした。捕まったか」
 と、尋ねた。
 姿が見あたらないことに悪い予感を覚えたが、これは黒髪の青年も同様だったらしい。
「はい。……私を庇って」
 答えて、女神の姫君が苦く目を閉じる。青年の掌が励ますようにそっと妹の肩を撫でた。
「説明を」
 紅竜の言葉に、老将は隊長達と視線を交わし、姿勢を正す。
「この岩場を抜ければ、砂漠まではいますこしです。身を隠すにちょうど良い岩陰がたくさんありましたから、我々はここで最後の小休止をとっておったのです」
 話し始めたのは硬い黒髪を針金のように刈り込み、同色の無精髭を蓄えた屈強な将のひとりだ。目の下に大きな傷痕がある。
 その傷痕を悔しげに引きつらせ、黒々とした目で紅竜を見た。
「すると、駐屯地からの出迎え部隊がここへ参じてくださいました。ヴェルドレ殿がわざわざ一部隊、率いて迎えに参ってくださったのです」
「……どうやら後を付けられたご様子で」
 誰かがぼそりと零した低い呟きを、別の者が鋭く制する。
 咳払いして、再び、傷のある黒髪の将が口を開いた。
「とにかく、あっというまの事でした。合流の安堵に全員が気を緩めた時に、多数の帝国兵どもが現れたのです。ざっと百数十は居たでしょうか。足場の関係か、騎馬が居なかったのがまだ幸いでしたが、我々は完全に不意を突かれました。老卿が咄嗟にフリアエ様の腕を引き、布で覆ってお姿を隠さなければ、フリアエ様も連れ去られてらしたでしょう」
「味方が混乱していることを、逆手に取るしかありませんでした」
 老将の声が重い。自兵の動揺さえ利用せざるを得なかったことが腹立たしいのだろう。
「儂は布を被せたフリアエ様を岩陰に押し込め、女神はいずこにおられるか! と叫びました。青ざめ、周囲を見渡す兵達の姿に、帝国兵どもは完全に騙されたようでした。ヴェルドレ殿はこちらを見ておられましたから、分かっていらしたと思います。イウヴァルト殿も」
「イウヴァルト殿は、私の傍らで剣を振るっておいででした」
 南国出身の若い将が引き取る。
「彼は老卿の計略に気付くと、ヴェルドレ殿の近くへ寄り、俺を、と仰いました」
 その表情が歪んだ。
「その時の私には何のことだか分かりませんでしたが、ヴェルドレ殿はどうやら何か術を使おうとしていらしたご様子で、イウヴァルト殿はそれに気づき、自分を使うようにと申し出られたのです」
「……幻術か」
 紅竜の言葉に、はい、と浅黒い肌を持つ将は頷き、他のものも無念の息を零した。
「ヴェルドレ殿は、良いのか、とお尋ねになった様子ですが、イウヴァルト殿に急かされるとその術を行使されました。すると、イウヴァルト殿のお姿がフリアエ様に変わったのです。……何かの術であるとは想像できましたが、我が目を疑いました」
「唖然としている我らの前で、帝国兵どもが『女神をみつけた』と声をあげるのと、ヴェルドレ殿が『早くこちらへ、女神!』という茶番をやりはじめるのと同時だった」
「灰熊の!」
 物言いを制するような声音の老将に、称号を呼ばれた将兵はふんと忌々しげに口元を歪めた。
「幻惑されたのは敵兵のみならず、我が兵もだ。本気で女神を守ろうとして敵刃に身を晒し、無為に死んでいった連中がどれだけ居たか……!」
「……とはいえ、他にどうしようもなかったのも事実」
 低く、呟く声が聞こえる。
 確かにそれは女神を守るに最善の策ではあったのだ。皆、分かっている。
 最後まで抵抗したとしても、多勢に無勢では部隊は全滅、女神もまた奪われてしまう。最悪の結末に比べれば、現状の犠牲は些細なものだ。
 ――分かってはいるのだろう。
 だが、死んでいった兵たちを思えば、腹の底に納得いかぬやるせなさがつのる。
 紅竜はひそりと女神の姫に視線を向けた。血に濡れた赤茶けた岩場に、じっと佇んでいる清浄な白い花だ。
 その花を背で守るように立つ黒髪の契約者から目を離し、紅竜は「つまり」と口を開いた。
「結果としてヴェルドレとイウヴァルトは捕虜となり連れ去られた、と、こういうわけだな」
「そうです。正確には、腕を引かれたのはフリアエ様に化けたイウヴァルト殿だけだったのですが、ヴェルドレ殿が自分も連れてゆけと強情に仰せになられ、無理矢理について行かれたのです」
「その判断は正しい。我ら契約者同士なら、相当離れていても思念の居場所が辿れる。いずれの収容所のどこにいるか、探索は易かろう」
 竜の言葉に、僅かながら安堵する色が将兵の間に流れた。
「それならば」
 少し離れた場所から、野太いひび割れた声が届いた。集まった視線の先には、隻眼で厳つい体つきの将兵らしき男がいた。
「ついでといってはなんだが、収容所の捕虜となっている我が駐屯地の兵達も解放してきて貰えると有り難い。ドラゴンがこっちに付いてるなんて話は初耳だ。あんたたちなら可能だろう」
「控えぬか……!」
 老将が小声で叱咤したが、紅竜はどこ吹く風だ。人間風情の生意気な物言いにいちいち激昂していたのでは身が持たない。本気で気に入らなければ踏みつぶせば良いだけのことだし、それはいつでも実行できる。
「保証はしかねるが、まあよかろう」
 紅竜が鷹揚に頷くのと、黒髪の契約者が傍らに寄って立ったのと同時だった。
 降ろしている翼に触れるような近さに、紅竜はぎょっとする。らしくない、寄り添うような空気を不審に思い、黒髪の頭を見下ろしたが、青年がきつい目で睨み据えているのは隻眼の将兵だ。
『焼いても構わんぞ』
 降ってくる不機嫌そうな心話に不意を付かれ、あやうく紅竜は笑い出すところだった。
 意図が読め、得心する。
 要するに、何某か矜持を引っ掻かれたというわけなのだろう。何をそこまで不機嫌になっているのかは理解しがたかったが、この振る舞いは不躾な将兵に対する青年なりの牽制なのだ。
『馬鹿を言う』
 喉の奥に微かな笑いを含み、紅竜は溜飲を下げた。
『味方であろう。それに捕虜を解放することは、おぬしらの戦力になるのではないか』
 分かっているのだろうに、黒髪の契約者のこの振る舞いは意外で面白かった。
 紅竜は傲然と首をもたげ、周囲の人間達を見据えた。
「我らは収容所へ向かう。夜を待ち、闇に乗じて奇襲をかける。我の炎が襲撃の狼煙となろう。ぬしらは後続として、捕虜とヴェルドレ神官長、イウヴァルトを保護しに参れ」
 く、と琥珀の竜の目を細める。
「間違っても我らより先行するでないぞ。きゃつらと一緒くたに焼き払われたくなければな」
 言って、ばさりと大きく翼を広げると幾人かが怯んだように腰を引いた。老将ら、生き残りの部隊だった者達はもはや慣れたのか微動だにしない。
「兄さん」
 黒髪の契約者に、女神の娘が駆け寄った。白くたおやかな手が兄の腕に伸び、そっと触れる。
「お願い。どうかあの人とヴェルドレを助けてあげて」
 細い声には、それでも常よりずっと情感が籠もっていた。兄に良く似た瞳の色合いが曇っている。自分の身代わりを躊躇うことなく買ってでた元婚約者の身を、心から案じる目だった。
 青年の手が、妹の腕をそっと宥めるように叩く。
 離れていこうとする彼の手を引き留めるように、妹姫の指が絡めて取った。
 ――その瞬間、ほんの僅かだけ青年が緊張する。青年の、傷だらけの無骨な指先に絡むように流れ落ちる白く細い指は、酷く扇情的だった。
 さりげなく引かれた兄の指に、妹姫が面を伏せる。
 秘密めいた一幕は周囲が気付かぬほどささやかなものだったが、紅竜にはざわついた胸苦しさがありありと伝わってきた。ブロックできないのは、青年が緊張しているせいか――それとも、女神の感応力が大きいせいか。
(どちらかといえば後者か)
 女神の中の情感が高まると、紅竜にもそうした波が伝わるようだと知れたが、さて、その故は分からない。それを疎ましく思う自分がいることに、紅竜は苛立った。
 行くぞ、と促すと、黒髪の契約者は竜の背に乗る。
「カイムの命を告げる」
 凛と紅竜は身を起こした。思念で伝えられた契約者の言葉を声にする。
「まず、女神と傷兵の安全が最優先である。出来る限り急ぎ、部隊を取り纏め、駐屯地へ迎え。襲撃は日没後。四方に見張りを立て、砂漠に慣れた足の速い後続部隊を用意。竜の炎と同時に進軍せよ。ただし、動かせる兵の数が百以下なら、逃げ出してくる捕虜の保護に徹し、前線へは寄るな。邪魔だ」
「御意!」
「承知した!」
 大きく鳴った竜の翼の音に負けまいと、将兵達が口々に声を張り上げて応える。
 手を翳し、見送る人々を後目に竜は悠然と舞い上がった。





(10.8.19~11.4)


back  top  next