第四章-3 塔がよっつ |
ごつごつとした崖の影に身を潜め、じっと夜を待つ。砂漠は寒暖の差が激しいが、昼間の強い陽光に炙られた大地はまだ仄かに熱を持っていた。 腹側の、幾分柔らかい皮膚をその熱で温めながら、紅竜は傍らの契約者に意識を向けた。 黒髪の青年は、頭から薄汚れた布を日よけ代わりに目深に被って座り、彫像のように動かない。 翼の下にいれてやったものかどうか、一瞬、紅竜は迷う。いれてやったほうがいいのだろう――おそらくは。人間には竜族のような鱗がない。脆く儚い皮膚からは、あっというまに体中の水分や熱が奪われてしまう。環境に適応し難いのだ。牙も爪も羽もなく、足腰も腕力も強くはない。基本的に脆弱な生き物――それが人間という種だ。 (毒気はたっぷりだがな) 棘持つ蟲が含む毒とは種類が違う。体を侵すのではなく、心を侵す毒だ。 だがとりあえず、紅竜が青年を翼の下にいれるべきかどうか迷っているのは、彼が身に纏う特別濃い毒の故ではなかった。 青年の内面が嵐のようにうねり、ざわついているのが分かる。苛立ち、焦り、呪詛、憎悪――そんなものがない交ぜになり、心の内が不穏に波打っているのだ。 全身が「構うな」と言っている。暗い目をして外界を拒絶し、そうして自分の内だけを見詰めながら、指先はただ盲目のように手首の飾りを撫で擦っていた。 (そういえば妹も同じものを付けていたな) 兄妹で揃いのものなのだろう。おそらくは王族の形見か証だ。一見、何の変哲もなさそうな鋼色の飾りだが、あれはスズ石だ。竜族の多く棲む、険しい山間部の鉱脈の熱水から採れる。硬く、竜の炎でも緑青蜥蜴の酸でも溶かすことが出来ない。 採ってくるだけでも苦労するその石を、ああして小さな飾り物に加工するには更なる手間と技術が要る。王族に贈られる献上品としては相応しい。 紅竜は、まるで望んで罰を受ける罪人のように残照へと身を晒している青年を諦めた。翼に入れこんだところでどうなるものとも思えない。 (どうせ休まらぬ) 言って聞く相手でないなら、放っておくしかないのだ。普通の人間ならばともかく、まがりなりにも契約者なのだし、もう日も落ちる。そうなれば、温度差に身を震わせる暇もない、闘いの時間の始まりだ。 ややあって、無造作に物をぶつけてくるような青年の思念が届いた。 『無事か』 紅竜は身動ぎ、答える。青年の不躾さにも慣れ始めていた。 『ヴェルドレならば、無事のようだな。この先の収容所から、途切れることなく思念が感じられる。……イウヴァルトは分からぬ』 『追えないか』 『残念だが。強い感情にでも揺さぶられれば、思念の叫びを掴めるやもしれんが』 ――それは不穏な状況下にあることに他ならないから、あまり好ましくはない。かといって、そうでもなければ生死すら分からないのだからままならなかった。 (まあよく堪えているほうか) 再び黙り込んだ黒髪の契約者を、竜は横目で眺める。荒れ狂う心の内とは裏腹に、彼の表面は静かだ。努めて冷静になろうと抑制している。 まもなく落日だった。 砂の海は夕陽に早々と染まって赤く、まるでこれから起きる出来事を預言してみせているかのようだ。 『そういえば、寝待ちの月だったな』 ふと思いついたように青年が東の方角を見た。月の出が遅い。 『うむ。お誂え向きに雲も出てきたようだ』 これでは到底、充分な明るさは望めまい。殆ど闇のような暗さであるに違いない。月が出るまでの間に奇襲をかけてしまえば、こちらが有利だ。厄介な弓兵からの攻撃もさほど気にせずにすむ。竜の目を持つこちらのほうが、圧倒的に有利といえた。 『いいぞ』 薄く、青年が口元に酷薄な笑みを刷いた。 『暗くては敵と味方の区別も付かなかろうが、おぬしには必要もないか?』 揶揄と皮肉をこめた紅竜の台詞に、青年は肩を竦める。 『あいつらはどうせ、前線には近寄ってこない。駐留軍の隊長は目端が利く。こちらが本気で邪魔だと言ってるのに気付いたろう』 呆れた紅竜が溜息を付いたが、王子はどこ吹く風だった。 『収容所めがけて真っ直ぐ滑空、南の壁に一撃上手く当てて大穴開けてやれ。そのまま俺を下ろして、お前が北側から追い立てれば、どれほど状況判断の出来ない奴でも、炎から逃れて生き延びようと南の崩れた場所を突破するだろう。そのまま南下すれば、連合軍の陣地へ繋がっている岩場に辿り着く。俺が後続部隊の隊長なら、あの岩場の影に部隊を潜ませ、逃亡してきた捕虜兵の保護と追っ手の撃破に当てる。彼はおそらくそうするだろうな』 『おぬしはどうする』 『敵を斬るだけだ』 単純明快な答えを嘆いてみせるべきか、嘲るべきか、それとも感心するべきか――本気で迷い、ふと、竜は気付く。 気付いて、身を震わせた。そうか、と無意識に言葉が零れる。 『おぬしにとって、この契約は喜びなのだな』 竜の呟きは、青年の表情に怪訝そうな色を呼んだ。 『……何を言っている?』 『おぬしが今手にしているものは、邪魔ものも雑音もなく、ただひたすら敵を斬ることが出来る現状だ。味方の手助けも必要としなくて良い。ただ独り、おぬしは自分の狩り場で好きなだけ獲物を屠ることができる、というわけだ』 竜の言葉を、黒髪の契約者は黙って聞いていた。暫くは薄蒼い瞳でじっと紅竜を見ていたが、ややあって口元を笑みの恰好につり上げる。 『お前には感謝している』 言葉には滴るような毒があり、紅竜は言い知れぬ怖気を覚えた。感謝が本物であることは疑いようもなく、けれどそれが意味する殺伐たる現状に、苦い気分になった。自分で話題を振っておきながら返された答えに、どう反応して良いか迷う己を愚かとも思う。 この青年は、やはり狂っているのだろうか。それとも狂気の淵に居るだけか。あるいは――所詮人間とは元からこういう邪気を秘めた生き物であるという、それだけのことか。 唐突に竜は、いまだかつて感じたことのない感情を覚えた。悲哀めいたその軋みに、琥珀の瞳を閉じる。 ――この契約はどれほど続くのだろう。 自らの選択を後悔する愚を竜は嫌悪していたが、それでもぽつりと胸に浮かんだ呟きを消すことは出来なかった。 いずれ青年の方が先に逝く。長い方の寿命に倣うとはいえ、そうそう竜族ほど人間の肉体は持ちはしない。共に逝くつもりなど紅竜にはなかったから、青年の肉体が滅びるときが契約を解く日だろうと思う。 だが、それまで紅竜の心臓は青年のもの。呪いめいたこの形は、少なくとも彼にとって益の多い満足のいくものなのだ。 では己にとってはどうなのか。 (その答えは見えぬ) 少なくとも、後悔などしていない――筈だ。紅竜にとって喜びも益もない契約だが、そんなことは最初から分かっていたことだから問題にならない。 では、胸に宿ったこの未知の感情はなんなのだろうと、竜は思う。どれほどの長い時を過ごして来ても、こんな感情を覚えたことはなかった。衝動の正体を掴めないまま、懊悩する。 本来を孤高で過ごす筈の生き物は知る由もない。その感情を、人は『寂しい』と呼ぶのだ。 紅竜には分からない。ただ、(報われぬ)とそう思った。 何がどう報われないのか、そもそも報われたいのかどうかは謎のままだ。己の内は空虚で、そんなことを考える自分を嗤う。 いずれ報われないのは皆同じだ。女神も――あの紅い髪の青年も。 そうだ――本当に、あの生死すら分からない哀れな青年はどうしたろう。可哀想に。得意だという音楽をまだ一度も聞いていないことを、竜は少しだけ残念に思った。おしなべて魔物は音楽に弱い。 『何を考えている?』 急に黙り込んだ紅竜に、黒髪の青年は怪訝そうな表情で語りかけた。 『イウヴァルトは報われぬ努力をしておるな、と』 『何を急に』 『献身に身をやつしたところで、叶わぬ愛であるだろうに』 『……フリアエは女神なのだから仕方がない。女神なのは、妹のせいじゃない』 青年の淡々とした言い種が、紅竜には何故か癪に障った。 『言い様だな。女神かどうかなど関係なかろう。おぬしら三人、いつまでそうやって真実から目を逸らし、見て見ぬ振りを続けるつもりだ。おぬし、妹の心がどちらを向いているか、気付いておろう』 す、と青年の顔から表情が消えた。面のように無表情な青年の灰蒼の瞳には、暗いかぎろいが生まれる。 『イウヴァルトも、おぬしも、あの娘の愛が誰を求めているか知っている。まわりが気付かぬとでも思ったか?』 『……あれは妹だ』 『それも言い訳だな。こんな末世で、己の命が儚いと知ってなお、血の繋がりなど愛を請う障壁にはならぬ』 『呆れたな。お前は女神を堕とせと唆しているのか?』 『そうではない。思いに応えるかどうかを決めるのに、女神や血族であることを理由として盾にとったのでは、娘が哀れではないのかと言っているのだ。女神の資格は純潔であること……だが、女神とて人だぞ』 口にしながら、紅竜は心のどこかで首を傾げる。何故、こんな話になったのだろう。このような事まで言うつもりはなかった。 思っていたのは事実だが、口にしても詮無いことだと分かっている。きちんと考えを纏めることもせぬまま言葉に乗せるなど、竜族らしくない。後悔しながら『もっとも』と、紅竜は小さく溜息を付いた。 『愛など、所詮愚かな独り遊びにすぎん。報われぬな。妹も、イウヴァルトも』 どうやら、毒は心だけではなく頭も侵すらしい。あまり人間に寄りすぎるとろくな事はないと、紅竜は首を振った。 黒髪の青年は、その竜を暫く見ていたが薄い笑みを浮かべる。 『よもや、ドラゴンの口が愛について語るとはな。……まあいい。ドラゴンは案外人がましいのか。それとも、お前が特別か?』 『……何?』 青年の、豹変したような棘のある口調に、紅竜は内心で眉を顰めた。青年の笑みが、意地の悪い色を含む。 『お前は、まるで人間の女のような口をきく』 黒髪の契約者の思念は、揶揄する響きを帯びていた。 が、そのことに気付かないほど――紅竜は衝撃に狼狽えてしまった。 人間の女。 女。 (……何故) 馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すべきだった。何故などと、考えるまでもなかったのだ。これは青年の、たちの悪い当てこすりだ。 知られたわけではない。気付かれたわけではない。紅竜に性の別があることを。人であれば「女」という種に分類される性を持っていることを――。 本来、竜族に性別など無い。聖性の高い竜の特性のひとつだ。 その竜族である筈の自分に刻まれた、同族の仔を育むという、希有の役割。証である紅玉のような鱗と比類無き力は、誇りであるはずだった。 だが、人間などに知られたくはなかった。特に――己の契約者には。 紅竜は動揺する。何故、知られたくないのかは分からない。分からないが、嫌なのならば平然としているべきだった。首を上げろ、と己を懸命に叱咤する。鼻先で嗤って、しらをきり通せば良いのだ。 けれど、もう遅い。竜の動揺は、思念で繋がっている青年に直接響いた。 『……?』 物も言わずに身を堅くしていた紅竜を、暫し不審そうに見詰めていたカイムは、はっと何事かに気付いたように目を瞠った。薄蒼い瞳が驚きを浮かべ、紅竜を改めるように見る。 『おまえ』 紅竜は居たたまれずに、ふいと顔を背けた。今さら誤魔化して何になるだろう。 『雌、か』 青年の、その言葉は呟きに近い。 否定も肯定もせず、紅竜は天を仰ぐと『……日が落ちたな』と告げた。 『行くぞ』 出来るだけ素っ気なく言い、翼を下ろすと、青年もそれ以上は何も言わず竜の背に乗った。 深紅の翼を広げる。急速に暗さを増す砂地は、それでも僅かな明かりを吸い込んで光を跳ね、本当に海のように見えた。 紅竜は自分の翼を誇りに思っていた。美しい色合いの、強く逞しい翼。疲れを知らず、空を自在に駆けることの出来る翼は、竜としての誇りの最たるものだった。 それが役目と無関係であったならもっと良かったのにと、ずっとそんな風に思っていた。その思考を異端だと告げる『声』が、竜の本能の中にある。けれど思ってしまうものは止めようがないのだから、仕方がない。 それとも、もう幾千年か過ぎれば、役目も当たり前と受け入れられるようになるのだろうか。 (とりあえずは、目先の闘いを生き残ることが先決か) 自分がどのような竜であるかなど、どのみちこの青年には関係ないだろう。 動揺から醒め、紅竜は空に舞い上がった。 闘いの夜が来る。 彼女は紅い翼で大きく風を打つと、戦火を開くために躊躇い無く斬り込んで行った。 |
(10.11.21)
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